拉致被害者救出とシベリア抑留。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

 

 九月十七日の、北朝鮮による拉致被害者救出国民大集会に参加した私の鞄のなかには、
 シベリアに抑留されて生還した方からの手紙が入っていた。
 手紙の主は、昭和二十年八月、
 満州の関東軍石頭予備士官学校に在籍した
 帝国陸軍士官候補生、荒木正則軍曹(九十二歳)である。
 荒木正則氏は、
 満州においてソビエト軍と戦って戦歿し、
 ソビエトによる苛酷なシベリア抑留のなかで殺されていった
 知られることなき多くの戦友・同胞のことを語り継ぎ、
 彼らの遺骨を日本に帰還させることを、
 残された人生の使命とされている。
 そして、本年七月にもシベリアに遺骨収集に赴かれた。
 
 そのシベリアに抑留された荒木正則氏の手紙が、
 九月十七日の拉致被害者救出集会の場にあったことは、
 勿論、特に意図したことではない。
 しかし、後になって振りかえれば、
 シベリア抑留者と拉致被害者は、
 共に意に反して強制抑留された同胞である。
 そして、シベリア抑留者に関する我が国と国民の意外な無関心が、
 拉致された被害者同胞を、
 長い間見て見ぬふりをした冷淡さにつながっているのではないか。
 反対に、シベリア抑留者を救出しなければならないという激しい思いがあれば、
 北朝鮮による拉致を未然に防止し、
 拉致された被害者があれば直ちに救出しようとする行動につながったのではないか。
 この意味で、荒木正則氏の手紙が、
 拉致被害者救出集会の場にあったことは不思議な符合と云うべきである。

 日本国と日本国民は、
 拉致され抑留されている同胞を断じて忘れず、
 断固として救出しなければならない。
 
 その断じて忘れてはならない拉致抑留された同胞とは、
 七十一年前にソビエトによってシベリアに抑留された同胞であり、
 断固として救出しなければならない同胞とは、
 現在、北朝鮮に拉致され抑留されている同胞である。

 しかるに、北朝鮮による拉致被害者救出に関して、
 既に九月十七日の国民集会の報告で述べたように、
 我が国政府は、この拉致を
 
 「北朝鮮による主権侵犯としてのテロ・戦争状態」
 
 として対処することはなく、
 日朝友好=国交樹立の為に解決すべき「日朝友好の障害」
 として扱い、
 一貫して北朝鮮との「話し合い=交渉・取引による解決」を目指してきた。
 その結果、
 ただいたずらに年月だけが経過し、
 遅まきながら政府が拉致被害者救出のためと銘打って拉致対策本部を設置してから
 現在で十年が経過しているが、
 その対策本部は、
 その間に一人の拉致認定者を追加した訳でもなく、
 被害者の家族が亡くなれば官僚組織らしくきっちり葬儀に出席し、
 年末には政府主催の関係者の立食パーティーと
 「拉致被害者救出コンサート!」を繰り返すだけで
 現在に至っている。
 この間、
 拉致被害者の、横田めぐみさんや有本恵子さんの、ご両親は、
 既に八十歳を越えるご高齢となり、
 恵子さんのお母さんは、
 現在、床につかれて療養されており、
 めぐみさんのお父さんは、
 体調不良で十七日の国民集会への参加を断念されている。

 この状況では、いたずらに、
 拉致問題のシベリア化を待つのみではないか!
 シベリア化とは、忘却である。

 ここにおいて、過去ではなく現在の問題として、
 シベリア抑留を体験した荒木正則氏の
 使命感と無念の思いを記しておくことが、
 拉致被害者を含む同胞のことを忘却の彼方に置き去ることなく、
 救出への断固とした意思を持続する為に必要と考え、
 以下に紹介することにする。

 ソビエトが日ソ中立条約を無視して、
 八十個師団百五十万の大軍を満州に侵攻させた昭和二十年八月九日、
 荒木正則氏は士官候補生として満州東部の石頭にある予備士官学校にいた。
 突如開始されたソビエト軍の侵攻に対して、
 石頭の士官候補生八百五十名は、「猪俣大隊」を急遽編成して
 石頭の北部の磨刀石(まとうせき)で
 蛸壺を掘ってその穴に隠りソビエト軍を迎撃する。
 しかし、
 野戦部隊ではない士官学校には十分な武器はなかった。
 それで士官候補生八百五十名は、
 学校にあった工業用爆薬を十キロずつを鞄などに詰めて手榴弾で起爆するようにし、  
 その鞄を持って蛸壺の中で敵戦車の接近を待ち受け、
 蛸壺から敵戦車目がけて突っ込んで自爆すると同時に
 敵戦車を破壊する戦法でソビエト軍を迎撃した。
 二日間続いたこの戦闘で、
 士官候補生八百五十人のうち七百五十人が戦死した。
 生き残った荒木正則氏らは捕虜となってシベリアの強制収容所に送られた。
 この「磨刀石の戦い」の目的は、
 関東軍主力の防御態勢確立までの時間稼ぎと
 邦人が無事南下するための楯となることだった。
 この「磨刀石の戦い」は日本では忘れられ、
 二十歳の仕官候補生七百五十名の遺骨は、
 磨刀石の荒野に埋もれ、
 また野晒しになって土に還り消え去ろうとしている。
 しかし、ソビエト軍は、
 日本軍士官候補生たちの肉弾特攻におそれをなし、
 今もロシアで、
 日本軍の「陸の特攻」として語り継がれている。
 それ故、先年、遺骨収集にシベリアに行った荒木正則氏を、
 ロシアのマスコミは「陸の特攻の生き残りが来た」と熱心に取材し、
 荒木正則氏の写真は、当地の博物館に永久保存することになった
  (以上、第三十六連隊長近藤力也一等陸佐「噛みしめよ!大先輩の思い」より)。

 以上が荒木正則氏が捕虜となった
 知られることなく二十歳の若者が邦人を助ける為に散華していった
 「磨刀石の戦い」である。
 次ぎにその荒木正則氏の私への手紙をそのまま記す。

 私儀、今年も九十二歳の老い、加えて足腰癒えぬ肢体を引きずり、
 戦友の亡骸、我が肩我が胸に抱き祖国へ連れ還さんと、
 今年十三回目のシベリア遺骨収集(7月)に参加、
 無事その任務を果たし帰国したものの、其の結果は歴然・・・、無理はたたり、
 今なお、杖を頼り、歩行困難な日々を過ごしています・・・。
 このような状況で、長い間ご無沙汰ばかりの日々を過ごし、
 失礼の段、心より深くお詫び申し上げます。
 それから、シベリアへの遺骨収集も早戦後71年を過ぎ、
 あの日あの時、辛い思いをともにし、最後、無念の死を遂げた戦友たちの亡骸は、
 悲しいかな・・・、今や白樺林の中に朽ち果て様として居ります。
 そして、何時も脳裏から離れません・・・、
 此の「シベリア強制抑留」たるものの真因とは何か・・・、
 それは、知る人ぞ知る・・・歴然たる、北海道北半分割譲要求と引き替えに行われた、「国家領土賠償の生け贄」だったのではないでしょうか。
 此の歴史的一大事件も、現世、或いは、戦い破れたるの故ありとは云え、
 この問題を喉に突き刺さった棘の如く厄介化し、
 一日も早い其の風化消滅を計り来たった史実は、
 後世是を、史上最大の汚点禍根として歴史に刻み込まれるのでは無いかと思います。
 ・・・   ・・・   ・・・
 振りかえる敗戦と云う名の為す所は、
 今に至るも、國の為捕虜と云う極限の世界を生き抜いてきた我々、
 シベリア強制抑留者に対し、単なる「抑留経験者」と呼び・・・、更に、
 シベリアの荒野に若き命絶えた10万とも云える英霊に対しても、
 是は「戦没者」では無い・・・、
 たんなる「抑留中死亡者」と呼び捨てられている事実は、
 是も敗戦・・・の、依って然らしめる故なるかとは、一部理解し得る所ですが、
 内心忸怩たる想いの癒され尽きる事はありません・・・。
 然し、今回、
 従来の、シベリア抑留中死亡者は「戦没者」ではないと明記されていたが、
 今回、國の事業に、明確に「戦没者」と認めていることは、
 (永年、シベリア抑留中に死亡した戦友の遺骨収集を続けている荒木正則氏に
 厚生大臣が「戦没者遺骨収集感謝状」を贈ったこと、西村補筆)
 将に国家再興復興の兆しとも云え、将に溜飲の下がる思いは、
 亡き戦友たちの歓びにも通じ、万感胸に迫るの思いに耽りました。
 最後に、
 身、不肖愚かにて、齢92歳の余命は、幾何も無き人生ですが・・・、
 戦い・・・とは、
 そして、
 シベリア強制抑留とは如何なるものであるか・・・、
 其の
 身を以て対峙体験した実態等は、
 後世に歴史真実の一端として語り継ぎ、
 之を知らしめるが己が使命責務と感じ、
 老兵老骨を鞭打ち頑張りますので、
 向後とも、更なるご指導ご鞭撻を宜敷くお願い申しあげながら、
 乱文をも省みませず失礼させて戴きます。

 以上が荒木正則氏の手紙である。
 ソビエトに抑留され強制労働のなかで斃れていった十万に及ぶ人々の思いが偲ばれる。
 なお、
 本通信では一般に云われているように「シベリア抑留」と記したが、
 ソビエトによる日本軍兵士約七十万の抑留地は、
 シベリアのみではなく全ソビエト地域およびモンゴル人民共和國に及ぶ。
 また、北朝鮮が
 日本人を日本域内で拉致を始める遙か以前の、
 昭和二十年八月十五日前後に、
 北朝鮮域内で殺害しまたは拉致抑留した
 多くの婦女子を含む日本人の総数は未だ判明せず闇のなかである。

 

平成28年9月19日(月)

西村眞悟の時事通信より。