乃木希典と明治の甦り。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

 

 

 陸軍大将乃木希典は、大正元(一九一二年)九月十三日、
 崩御された明治天皇の跡をしたい殉死した。
 翌九月十四日に乃木の殉死を知らされた皇太子殿下のちの昭和天皇は、
 落涙された、と昭和天皇実録は記す。
 百四年後の九月十三日から本日十四日に日付けが変わった未明、
 しきりに殉死した乃木閣下と明治のことが思われたので、本通信に記すことにした。

 明治天皇は、
 嘉永五年(一八五二年)十一月三日京都にお生まれになり
 明治四十五年七月三十日東京にて崩御された。
 乃木希典は、
 嘉永二年(一八四九年)十一月十一日東京に生まれ
 大正元年九月十三日東京赤坂において
 明治天皇の棺が皇居をお出ましになったことを知らす弔砲を聞きながら殉死した。
 明治天皇と乃木希典は、
 同時代即ち明治を生きて明治を終焉させた。
 本日の未明、夢のなかでしきりに乃木希典閣下のことが思われたのは、
 我が国に、この明治の精神を甦らさねば、
 克服できない国難が迫っているからではないかと思う。
 そこで、本通信で、明治は、
 大正そして昭和を経て平成に至る現在も、
 断絶なく連続しているということを記したい。

 表面上は、
 昭和二十年八月十五日を境にして時代は「戦前」と「戦後」に分けられ、
 明治憲法といわれた大日本帝国憲法は「日本国憲法」と変えられ、
 教育勅語は廃止され、
 明治天皇のお誕生日十一月三日の祝日である明治節は「文化の日」となり、 
 司馬遼太郎の国民に広く読まれた歴史小説や論考では、
 明治と昭和は、異なる国家であるかのように語られている。
 しかし、日本という国家を、
 「和」を体現する家族共同体また運命共同体として把握すれば、
 その本質は、数千年の歴史を経て揺るぎなく連続して現在に至っている。
 まさに、明治という時代は、
 大日本帝国憲法と教育勅語において明らかなように、
 我が国のこの数千年の家族共同体また運命共同体の連続性の自覚の上に、
 近代国家を建設したが故に、国難を克服できたのである。
 そして、現在もまさにその自覚に国家の存亡が懸かる歴史段階に直面している。

 まず、家族共同体・運命共同体、即ち生命体、としての我が国家の、
 中心人格は天皇である。
 その天皇における連続性を温(たづ)ねてみよう。
 
 日露戦争後の明治四十年一月、明治天皇は乃木希典を学習院院長に任ぜられた。
 この人事は、山県有朋の乃木を陸軍参謀総長にという意向に反して為された。
 後日拝謁した山県に、明治天皇は次のようにおっしゃり、
 乃木に次の御製を贈られた。
 
 「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、
 乃木は学習院長にすることにするから承知せよ。
 近く三人の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、
 孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、
 乃木をもってすることにした」

  いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ

 乃木が学習院院長に就任して三ヶ月後の明治四十年四月、
 後の昭和天皇である迪宮裕仁親王殿下(明治三十四年生れ)が学習院に入学された。
 そして、殉死までの五年間、乃木希典は、昭和天皇の教育に精魂を込めた。
 後に、昭和天皇はご自分に最も深い影響を与えたのは乃木希典である旨述懐されている。 
 乃木は、日露戦争において、戦史上未曾有の難戦の末に
 旅順要塞を陥落させた第三軍司令官であったが、
 その難戦の途上、乃木更迭論が陸軍内部から出たときに、
 明治天皇が、更迭はならんと言われ、
 大山巌満州軍総司令官が、
 「全ての将兵が、あの方の下でなら死ねると、
 仰ぎ見る軍司令官は乃木しかいない」
 と述べてその更迭論を退けた計り知れない人格をもつ軍人だった。
 その乃木が、昭和天皇に一番深い影響を与えたのである。
 乃木希典は、
 殉死の数日前に皇太子になられた裕仁親王殿下を訪ね、
 自分が筆記した山鹿素行の「中朝事実」をお渡しして熟読されるように言った。
 その乃木の様子に、十一歳の殿下は、
 「院長閣下は、どこか遠くに行かれるのですか」
 とお尋ねになった。
 そして、乃木の殉死を告げられた殿下は、落涙された。
 昭和天皇実録の中で、天皇の落涙を記すのは御年十一歳のこの時だけである。
 昭和天皇は、
 乃木希典とともに明治を受け継いでおられたのだ。

 それ故、昭和天皇は、昭和二十年八月十日午前二時二十分、
 大東亜戦争におけるポツダム宣言受諾即ち終戦の御聖断に際し、
 「忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。
 明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、
 自分は涙をのんで原案に賛成する」
 と言われ、
 その四か月後の昭和二十一年一月一日、
 「新日本建設の詔書」を発せられ、その冒頭に、
 「明治天皇明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給えり」
 と「五箇条の御誓文」を掲げられて、
 明治天皇の御誓文を以て終戦後の新日本の国家目的とされた。
 ここにおいて、昭和天皇は、
 明治の国家目標を現在の国家目標と確認されて、
 明治と現在の連続性、戦前と戦後の連続性、を宣言されている。

 だが、天皇を通じた明治と昭和との連続性を言うならば、
 そもそも「天皇の皇位の継承「とは
 「万世一系の皇祚を践む」ことであり、
 これは天皇が、
 大嘗祭によって祖霊を受け継ぐことである。
 従って、我が国に万世一系の皇祚を践まれる天皇があられる限り、
 我が国は明治のみならず太古から連続している。
 即ち、生命体としての我が国家の人格的中心である天皇は、
 大嘗祭によって太古からの祖霊を現在に受け継いでおられるからだ。

 では何故、
 我が国家の危機克服において、
 この自覚が明治と同様に死活的に重要となるのか。
 この理由を明確に言う。
 ここから武士道が生まれるからである。
 ここから楠木正成の七生報国の信念、
 国のために死んでも死なないという心が生まれるからである。
 乃木希典が、
 最も重んじたのは武士道であり、
 最も敬仰した武人は七生報国を信じて自決した楠木正成である。

 とはいえ、これは我が国に限らず、
 およそ危機を克服する国家の国民は、
 等しくこの決死の思いを抱く。
 そこで、現在、我が国に迫る危機を見つめ、
 英国の歴史における危機克服の精神を探ろうと思う。
 そうすれば、我が国の明治は、
 単に我が国一国の危機克服の教訓にとどまらないことが判ると思う。
 実は、昨日、イギリスのチャーチルが、
 一九四〇年(昭和十五年)五月二十八日に何を語り何を決断したのかを調べていた。
 この日のチャーチルが、
 イギリスのみならず現在のヨーロッパの運命を決定したからだ。

 現在の我が国は、
 一九四〇年のイギリスと国外と国内において同じ脅威に曝されている。
 即ち、イギリスはこの時、
 大陸の独裁国家の軍事的攻勢と、
 この独裁者と宥和しようとする国内勢力の
 相協働してつくり出す亡国の脅威に曝されていた。
 しかも、この国内の宥和勢力は極めて優勢であり、
 宥和論者は平和を口にしさえすれば、あらゆる社会層の支持を得ていたのである。
 そして、チャーチルは、この時期に、戦争屋と呼ばれて落選し続けていたが、
 遂にこの時、有力な宥和主義者達が居座る内閣を率いることとなったのだ。
 仮にイギリスにチャーチルがいなければ、
 ヨーロッパは、既にこの時に「EU」になっていただろう。
 そのEUは、ナチスドイツによるEUであり、
 想像しただけでもいやなEUである。
 イギリスが離脱したくとも離脱できないEUである。
 この年の前年の一九三九年、
 ドイツとソビエトは、独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)を締結した直後の九月一日、東西から同時にポーランドに侵入し、第二次世界大戦の幕は切って落とされた。
 そして数ヶ月後には、ポーランドの東半分以西のヨーロッパはナチスドイツの占領下に入り、イギリス軍はフランス西岸のダンケルクでドイツ軍によって殲滅される状況となり、イギリスは、国家としてドイツに対する抗戦を諦める寸前まで追いつめられた。
 この時、イタリアを介して、イギリスがドイツとの調停を求める時が来た、との提案がイギリスに伝えられた。
 宥和主義者達は、この提案に呼応して、ヒトラーと取引をしてイギリスが戦争から抜け出せば、戦争は実質上終了し、世界中で何百万人もの命を救うことになると考えた。
 しかし、この提案を受けたのが新しく首相になったチャーチルだった。
 とはいえ、そのチャーチルの新内閣の構成員の中には、元首相のチェンバレンやチャーチルの前に首班指名されて辞退したハリファックス卿という宥和主義の有力者がいて激しくチャーチルを非難してヒトラーとの宥和を主張した。ドイツ空軍によってイギリスの飛行機工場が破壊される前にヒトラーとの交渉を開始すべきだと。
 ハリファックスは、ドイツ空軍司令官のヘルマン・ゲーリングと狐狩りをよく共に楽しむ親密な間柄であった。このようなドイツと繋がりのある宥和主義者は、当時のイギリスの上流階級にうようよいた。
 しかし、チャーチルは宥和論への反論を繰り返した。
 ヒトラーとの話し合いは危険な道に入る、
 交渉によって侵略行為に報酬を与えてはならないと。
 そして、チャーチルは、最後に次のように演説して
 「ヒトラーとは交渉しない」
 というイギリスの方針を断固として打ち立てた。
 
 「私が一瞬でも交渉や降伏を考えたとしたら、
 諸君の一人ひとりが立ち上がり、私をこの地位から引きずり下ろすだろう。
 私はそう確信している。
 この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が遂に途絶えるのなら、
 それはわれわれ一人ひとりが、
 自らの流す血で喉を詰まらせながら地に倒れ伏すまで戦ってからのことである」

 このチャーチルの決断によって、ドイツとのバトル・オブ・ブリテンが開始され、
 決断から一年以内に三万人に及ぶイギリス人男性、女性、子ども達が
 ドイツによって殺害された。
 しかし、この決断がなければ、全ヨーロッパがナチスドイツに支配された。
 そして、歴史上最も邪悪なEUが誕生していたのだ。

 さて、この一九四〇年当時のイギリスを振り返り、
 イギリスを日本に、ナチスドイツを中共に置き換えれば、
 そのまま、現在の東アジアの情勢と中共の我が国への軍事的攻勢
 そして、我が国内における中共との宥和主義者達の動向を説明したことになる。
 我が国の宥和主義者は、
 中共に「侵略の報酬」、「軍備拡張の報酬」という援助を与え続け、
 いつも中共の独裁者との会談をこの上なく喜んできたではないか。
 また、チャーチルの演説は、
 戦うも亡国、戦わざるも亡国ならば、戦っての亡国を選ぶ
 という永野修身軍令部総長の日米開戦時の発言と同じである。
 その上で、現在の一番深刻な問題を言う。
 それは、チャーチルに置き換えられる人物が、
 あの選挙で選ばれる現在日本の政界にいるのか、ということだ。

 しかし、必要なことは、
 政界にチャーチルを捜すのではなく(ないものを捜さず)、
 我が国においては、天皇がおられる限り、
 国民は家族のように一致団結して危機に立ち向かうことができるという
 我が国家の存立と継続の原点に自信と誇りをもつことである。
 そうすれば、明治が為し遂げたように、現在の我々も危機を克服することができる。
 よって、現在の国民に最も必要な心は、
   敬神、尊皇そして愛国
 であると述べ、
 乃木希典閣下ご夫妻の殉死から一夜明けた九月十四日の時事通信としたい。
 
平成28年9月14日(水)