平成27年11月25日(水)
この「それは自由でも民主主義でもない、日本だ」という言葉は、
四十五年前の今日、昭和四十五年十一月二十五日午後零時が迫る頃に、
市ヶ谷のバルコニーから三島由紀夫が森田必勝とともに、
バルコニーの下に集まった自衛官達に発した「檄」の末尾の一文である。
この訴えは、自決のまさに直前だった。
全体は次のように続く。
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として、
蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」
三島由紀夫は、
「空に浮かんだような抽象的な自由や民主主義」が、価値あるものとは考えない。
価値ある自由と民主主義は、
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本に根ざしたものとして存在すると確信した。
従って、三島由紀夫は、まず第一に、
その根本の「日本の歴史と伝統」を阻害するものを打倒し除去することに命をかけ、
驚くべきことに、あの時、それを実践したのである。
そして、今まさに、我が日本に、
「日本の歴史と伝統」を回復しなければ克服し得ない国難が迫るが故に、
三島と森田両烈士の魂は、四十五年の時空を経て蘇ってきている。
そこで、
この「空に浮かんだような抽象的な自由や民主主義」の選挙に関して、
相次いで主じた、事態を指摘しておきたい。
一つは、遙か西の親日国ミャンマーで起きた、アウン・サン・スーチー女史の圧倒的な勝利である。
この勝利を見て、主に英米の西側諸国を本拠とする多国籍企業は、
ミャンマーが抱える巨大な天然資源にヨダレを流し始めている。
アウン・サン・スーチー女史らのグループには多民族国家ミャンマー運営の経験は皆無であるからだ。
また、女史に、経済政策はない。
アジアやアフリカの「軍事政権」を打倒する時の、西側の武器は「自由と民主主義」である。
そして、どうなったか。
近年、中東やアフリカ北部で起こった事態は、国家の分裂と内乱と過激派の誕生ではなかったか。
かつてイギリスは、ビルマ王室の淑女をイギリス軍将校の側室にしてビルマを植民地支配し、
ビルマ人の自由を徹底的に奪い民主主義など論外とした。
そして今、同じイギリスがミャンマーに「自由と民主主義」を要求している。
そして、その象徴は、イギリス人の夫を持ちイギリスに家があるノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スーチー女史である。
彼女のノーベル賞受賞の時、ミャンマーの首都ヤンゴンで会った同国の責任者キン・ニュン第一書記は、
その西側の「自由と民主主義」を掲げる手法を、「第二植民地主義である」と私に言った。
次の「自由と民主主義」の事態は、我が日本国内の大阪での選挙である。
またもや「大阪都構想」を掲げる候補者が見事に勝った。
つまり、多くの有権者がその候補者に投票した。
この結果を見て、私が連想したのは、
三島由紀夫の表題の最後の訴えである。
西村眞悟の時事通信より。
━─━─━─━─━─
※ 大阪の有権者は、「大阪都構想」の「自由と民主主義」よりも、自民・共産という腐りきった「自由と民主主義」を拒否したのです。
四十五年前の今日、昭和四十五年十一月二十五日午後零時が迫る頃に、
市ヶ谷のバルコニーから三島由紀夫が森田必勝とともに、
バルコニーの下に集まった自衛官達に発した「檄」の末尾の一文である。
この訴えは、自決のまさに直前だった。
全体は次のように続く。
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として、
蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」
三島由紀夫は、
「空に浮かんだような抽象的な自由や民主主義」が、価値あるものとは考えない。
価値ある自由と民主主義は、
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本に根ざしたものとして存在すると確信した。
従って、三島由紀夫は、まず第一に、
その根本の「日本の歴史と伝統」を阻害するものを打倒し除去することに命をかけ、
驚くべきことに、あの時、それを実践したのである。
そして、今まさに、我が日本に、
「日本の歴史と伝統」を回復しなければ克服し得ない国難が迫るが故に、
三島と森田両烈士の魂は、四十五年の時空を経て蘇ってきている。
そこで、
この「空に浮かんだような抽象的な自由や民主主義」の選挙に関して、
相次いで主じた、事態を指摘しておきたい。
一つは、遙か西の親日国ミャンマーで起きた、アウン・サン・スーチー女史の圧倒的な勝利である。
この勝利を見て、主に英米の西側諸国を本拠とする多国籍企業は、
ミャンマーが抱える巨大な天然資源にヨダレを流し始めている。
アウン・サン・スーチー女史らのグループには多民族国家ミャンマー運営の経験は皆無であるからだ。
また、女史に、経済政策はない。
アジアやアフリカの「軍事政権」を打倒する時の、西側の武器は「自由と民主主義」である。
そして、どうなったか。
近年、中東やアフリカ北部で起こった事態は、国家の分裂と内乱と過激派の誕生ではなかったか。
かつてイギリスは、ビルマ王室の淑女をイギリス軍将校の側室にしてビルマを植民地支配し、
ビルマ人の自由を徹底的に奪い民主主義など論外とした。
そして今、同じイギリスがミャンマーに「自由と民主主義」を要求している。
そして、その象徴は、イギリス人の夫を持ちイギリスに家があるノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スーチー女史である。
彼女のノーベル賞受賞の時、ミャンマーの首都ヤンゴンで会った同国の責任者キン・ニュン第一書記は、
その西側の「自由と民主主義」を掲げる手法を、「第二植民地主義である」と私に言った。
次の「自由と民主主義」の事態は、我が日本国内の大阪での選挙である。
またもや「大阪都構想」を掲げる候補者が見事に勝った。
つまり、多くの有権者がその候補者に投票した。
この結果を見て、私が連想したのは、
三島由紀夫の表題の最後の訴えである。
西村眞悟の時事通信より。
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※ 大阪の有権者は、「大阪都構想」の「自由と民主主義」よりも、自民・共産という腐りきった「自由と民主主義」を拒否したのです。