平成27年10月12日(月)
泉州路は、昨夜をもって、本年の秋祭りを終えた。
九月からの土曜日と日曜日、次々と各神社で始まる、
祭りに、参加し、見物し、
気がつくと秋の冷気が深まる中で祭りが終わっていった。
昨夜、太鼓と鐘が打ち鳴らされるなかで、
大勢の村の法被をきた若者に二日間引き回されてきただんじりが、
夜になり、多くの提灯に飾られて最後のしこりを終え、暗い夜道を村に帰って行った。
それを見送れば、汗が冷たく、ものかなしい。
昨夜は、堺の田園で祭りの終演に参加した。
堺には、だんじり(地車)とふとん太鼓の祭りがある。
今執筆している本にも祭りのことを書いている。
これらの祭りの意義、祭りが地域に与える影響、祭りのもつ国家的意義は計り知れない。
まず、各地域に小学校がある。
加えて、各地域にだんじりやふとん太鼓があれば、その教育効果は学校に優る。
学校の先生が逆立ちしても、
伝統ある、一台のだんじり、一台のふとん太鼓にかなわない。
つまり、だんじりやふとん太鼓は、薩摩の郷中教育と同じ教育効果を発揮する。
薩摩の郷中教育は、各村の六歳から二十四、五歳までの男子が共同生活をして、
立ち居振る舞いから武芸、学問そして根性を鍛え合う。
六歳から十四歳までを稚児、十四、五歳から二十四、五歳を二才、二十四、五歳から長老と分けて、
稚児を二才が教育し、二才を長老が鍛える。これが郷中教育だ。
だんじりを引き回し、ふとん太鼓を担ぐ若者達の体力と精神は、
この郷中と同じようにして育ってゆく。
さらに、祭りが神社の神事であることから、
参加する若者達は、幼い頃から神を敬う敬神の心を養う。
この教育効果は、計り知れない。
ハンドルのない四、五トンのだんじりを引き回し、二トンのふとん太鼓を担ぐのは、
大勢の一致団結した組織的行動である。
訓練されない者が群がっても、だんじりは動かせないし、ふとん太鼓は担げない。
数年前、この訓練された若者の組織的動作を、
陸上自衛隊の連隊長と航空隊の司令に見てもらった。
彼らは直ちに、一人のリーダーが団扇でサインを出して全体を動かしているのを見て取って、
「立派な軍事行動だ」と言った。私が、
「我が国は、徴兵制ではないが、祭りで軍事訓練をしているので、
あいつらがいざとなったらすぐに立派な兵隊になる」と言うと、
連隊長と司令の二人は深く肯いた。
よって、我が国の祭りは、地域の防災機能強化にとどまらず、
国家の国防力強化につながっている。
それにしても、だんじりは一台、一億円くらいかかる。
ハンドルもなく、車体も車も総て木で作られていてとてつもなく重い。
なんで、こんな不便なものを一億もかけて造るのか。
しかし、それを太古以来の人力で動かすことに無上の充実を感じる。
ふとん太鼓の最終日には、背中の首の付け根が水牛のコブのようにふくれている若者が続出する。
これが世界最優秀の自動車を生産し、快適な生活をしている国の我々、人々、のおもしろさだ。
私は、この秋も、地区のふとん太鼓の上に乗せてもらった。
下で担いでいる五十人ほどの若者の汗の蒸気が上がってくる。
上で揺られていて感じるのは、担ぐ者たちの体力の具合である。
疲れて体力が弱ってきたり、右と左の力の差が広がれば、太鼓は右左に揺れて漂流する。
ふとん太鼓を神社の境内に入れて参拝を済ませてからは、
最後までへとへとになるまで担ぎ続けるつもりやという思いが上に伝わってくる。
それで、ふとん太鼓の上で、奇妙なことを連想し得心した。
それは、戦国時代の、人力だけで闘われていたときの武将が、
勝利するために、何に細心の注意を払っていたかである。
彼らは、部下と敵の体力の具合に最深の注意を払って、
総攻撃を仕掛けるタイミングを計っていたと得心した。
西村眞悟の時事通信より。
九月からの土曜日と日曜日、次々と各神社で始まる、
祭りに、参加し、見物し、
気がつくと秋の冷気が深まる中で祭りが終わっていった。
昨夜、太鼓と鐘が打ち鳴らされるなかで、
大勢の村の法被をきた若者に二日間引き回されてきただんじりが、
夜になり、多くの提灯に飾られて最後のしこりを終え、暗い夜道を村に帰って行った。
それを見送れば、汗が冷たく、ものかなしい。
昨夜は、堺の田園で祭りの終演に参加した。
堺には、だんじり(地車)とふとん太鼓の祭りがある。
今執筆している本にも祭りのことを書いている。
これらの祭りの意義、祭りが地域に与える影響、祭りのもつ国家的意義は計り知れない。
まず、各地域に小学校がある。
加えて、各地域にだんじりやふとん太鼓があれば、その教育効果は学校に優る。
学校の先生が逆立ちしても、
伝統ある、一台のだんじり、一台のふとん太鼓にかなわない。
つまり、だんじりやふとん太鼓は、薩摩の郷中教育と同じ教育効果を発揮する。
薩摩の郷中教育は、各村の六歳から二十四、五歳までの男子が共同生活をして、
立ち居振る舞いから武芸、学問そして根性を鍛え合う。
六歳から十四歳までを稚児、十四、五歳から二十四、五歳を二才、二十四、五歳から長老と分けて、
稚児を二才が教育し、二才を長老が鍛える。これが郷中教育だ。
だんじりを引き回し、ふとん太鼓を担ぐ若者達の体力と精神は、
この郷中と同じようにして育ってゆく。
さらに、祭りが神社の神事であることから、
参加する若者達は、幼い頃から神を敬う敬神の心を養う。
この教育効果は、計り知れない。
ハンドルのない四、五トンのだんじりを引き回し、二トンのふとん太鼓を担ぐのは、
大勢の一致団結した組織的行動である。
訓練されない者が群がっても、だんじりは動かせないし、ふとん太鼓は担げない。
数年前、この訓練された若者の組織的動作を、
陸上自衛隊の連隊長と航空隊の司令に見てもらった。
彼らは直ちに、一人のリーダーが団扇でサインを出して全体を動かしているのを見て取って、
「立派な軍事行動だ」と言った。私が、
「我が国は、徴兵制ではないが、祭りで軍事訓練をしているので、
あいつらがいざとなったらすぐに立派な兵隊になる」と言うと、
連隊長と司令の二人は深く肯いた。
よって、我が国の祭りは、地域の防災機能強化にとどまらず、
国家の国防力強化につながっている。
それにしても、だんじりは一台、一億円くらいかかる。
ハンドルもなく、車体も車も総て木で作られていてとてつもなく重い。
なんで、こんな不便なものを一億もかけて造るのか。
しかし、それを太古以来の人力で動かすことに無上の充実を感じる。
ふとん太鼓の最終日には、背中の首の付け根が水牛のコブのようにふくれている若者が続出する。
これが世界最優秀の自動車を生産し、快適な生活をしている国の我々、人々、のおもしろさだ。
私は、この秋も、地区のふとん太鼓の上に乗せてもらった。
下で担いでいる五十人ほどの若者の汗の蒸気が上がってくる。
上で揺られていて感じるのは、担ぐ者たちの体力の具合である。
疲れて体力が弱ってきたり、右と左の力の差が広がれば、太鼓は右左に揺れて漂流する。
ふとん太鼓を神社の境内に入れて参拝を済ませてからは、
最後までへとへとになるまで担ぎ続けるつもりやという思いが上に伝わってくる。
それで、ふとん太鼓の上で、奇妙なことを連想し得心した。
それは、戦国時代の、人力だけで闘われていたときの武将が、
勝利するために、何に細心の注意を払っていたかである。
彼らは、部下と敵の体力の具合に最深の注意を払って、
総攻撃を仕掛けるタイミングを計っていたと得心した。
西村眞悟の時事通信より。