八月十五日から始まった戦争がある。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
異性の幼馴染いる? 

平成27年8月22日(土)

 前回に続いて、八月十五日に関して書く。
 我が国のマスコミの「戦争特集」という行事は、八月十五日で終わる。
 そして後は忘れたようになる。
 
 しかし、現実には、その日から、また戦争が始まっていた。
 その戦争は、軍服ではなく礼服を着た戦争であった。
 その主役である
 昭和天皇と外務大臣重光葵に関して記しておきたい。

 サイパンが陥落し本土への爆撃が予想されるようになった昭和十九年八月二十九日から
 敗戦後の二十一年まで侍従長を務めた明治十三年生まれの藤田尚徳海軍大将は、
 その間の陛下のお姿を次のように書いている。
 
 「そこに発見したものは、上御一人の立場にたたされた陛下が、
 戦争の終結と平和の回復のためにつくされた超人的な努力である。
 国の存亡をかけた動乱の舞台に、ただお一人出通して楽屋へ下ることも許されず、
 その間に陛下がひたすら念じられていたことは、勝利とか敗戦とかを越えた、
 人間同志の信頼と、そこから生まれる平和の世界に、いかにしたら戻れるかという祈りである。」

 「苦しみがあってもうったえるべき人のいない天皇、
 グチのやり場もないのが日本の天皇の姿であった。
 陛下は発言したくても、その意見を公になさることはなかったわけで、
 戦争の責任についても、もちろん一言もお述べになったことはない。
 ただマッカーサー元帥に対して、『一切の責任を自分で負う』と表明されただけであった。」

 「昭和天皇実録」を概観すると、
 藤田侍従長の言うとおり、昭和天皇の日常は超人的である。
 そのなかで、印象に残るのは、外地に展開する陸海軍の積極的作戦行動を中止させるためのご努力である。
 八月十五日に、天皇は、辞表を提出した鈴木貫太郎総理に代わる首班を選ぶ作業を開始しつつ、
 大元帥として、大陸命と大海令を発せられて外地に展開する陸海軍の作戦中止の命令を発し、
 翌十六日には、皇族を宮中に呼び、各々、支那方面、関東軍方面および南方方面に赴いて各軍に停戦の聖旨を伝達をするように命じ、翌十七日に「陸海軍人に対する勅語」を発せられた。
 また、天皇は、
 外務大臣重光葵と参謀総長梅津美治郎に、
 九月二日のアメリカ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印を命ぜられるのであるが、
 調印の前日に二人を呼んで、意に沿わぬ務めと思うが、国のために行ってくれと労っておられる。

 外務大臣重光葵は、毎朝、教育勅語を朗読する人物であった。
 昭和七年の天長節を上海で迎えた重光葵は、演壇で国歌君が代を歌っているときに爆弾を投げ込まれた。
 その時重光は爆弾が投げられたのは分かっていた。
 しかし、国歌斉唱中であったので動くのは不敬であると考え動かなかった。
 そして、右足を付け根から吹き飛ばされて失った。
 また、昭和十八年十一月、東条内閣の外務大臣であった重光は、
 東京で大東亜会議を開催し「大東亜共同宣言」を発出している。
 重光には、諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を謳った「大東亜共同宣言」こそ、
 白人だけの自由を謳っただけで、白人に支配されるアジア・アフリカの有色人種を顧みない「大西洋憲章」に遙かに優るものとも強烈な自負があった。
 重光は、八月二十八日、伊勢に赴き、禊ぎをしてから、伊勢神宮に参拝し、一心に祈った。
 「我が国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ」

 このような男である重光が、九月二日早朝に天皇から送られた義足をつけて横須賀沖に停泊するアメリカ軍艦ミズーリ号に向かったのである。
 ミズーリ号は、八十九年前の嘉永六年、
 ペリー艦隊の旗艦であるサスケハナが投錨していた同じ地点に投錨していた。
 そして、その艦橋にはサスケハナが掲げていた同じ星条旗が掲げられていた。

 午前九時半に、降伏文章調印を終えて帰路につくと、
 同じ二日、連合軍総司令官マッカーサーは、日本国政府を介さずに直接次の三つの布告をしてきた。
 一つ目は、連合軍総司令官の直接命令によって動くこと、
 二つ目は、日本の裁判所を廃止してアメリカ軍の軍事法廷によること、
 三つ目は、日本の通貨を廃止してアメリカの軍票によること。
 要するに、マッカーサーは、我が国に軍政を施こうとしたのだ。

 この三つの布告をみた重光葵は、午前中に、直接、横浜のニューグランドホテルに乗り込み、そこに滞在するマッカーサーに面会を求め、直談判の上、
 我が国に直接軍政を敷くのは降伏文書に違反する。
 我が国は、ドイツのように政府がなくなったのではない、我が国の政府は機能している、
 我が国は、無条件降伏をしたのではない。
 よって、三つの布告を撤廃されたし、と要求した。
 九月五日、マッカーサーは、三つの布告を撤廃した。
 まさに、重光葵の「礼服を着た戦闘」であった。

 以上、八月十五日から始まった新たな戦いの、始まりのほんの一部を書かせていただいた。
 この戦いの帰趨が、七十年たった現在のところ、「敗北」という判定をされても文句は言えない。
 東京裁判史観の定着や村山富市談話などが「敗北」の証であろう。
 しかし、マスコミの表層だけで判定できないのが我が日本である。
 明治天皇が謳われたように、
 
 「敷島の大和心のををしさは ことあるときそあらわれにける」
 
 であるからだ。
 しかも、「ことあるとき」は近づいている。
 日本を信じよう。
 
西村眞悟の時事通信より


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