平成27年7月13日(月)
敗戦から七十年が経過し、
「日本を永久に武装解除されたままにしておくために起案した」(チャールズ・ケーディス大佐)憲法九条
の施行から六十八年が経過している。
そして、現在、国会でいわゆる安保法制議論(妄論)が行われている、というわけだ。
では、その議論とは、一体、何だ?
私の知り合いで、TVで「その議論」を見て聞いた人の総ては、馬鹿馬鹿しいと言った!
弁護士の大先輩が、電話をかけてくれて、
「テレビを視てたら、アホらしいて、あいつらアホか、メシ食いに行こう」と誘ってくれた。
つまり、その議論とは、現場の現実から遊離した「妄想合戦」なのだ。
何故、そうなのか。
「日本を永久に武装解除されたままにしておくために起案した憲法九条」の枠内の議論であるからだ。
馬鹿馬鹿しいではないか。
この「」の中の言葉は、憲法九条を起草したチャールズ・ケーディスが、
一九八一年四月に、産経新聞の古森義久記者に語ったことばである(産経新聞朝刊、平成十九年七月一日)。
彼は、一九四六年二月、三十九歳の時、
我が国を軍事占領していたGHQ(連合軍総司令部)の民政局次長・陸軍大佐であり、
米統合参謀本部やマッカーサー総司令官から命じられて、
十数人のスタッフを率いて十日足らずで一気に「日本国憲法」を書き上げた。
その米統合参謀本部やマッカーサー総司令官が、
ケーディスに「日本国憲法」の起草を命じた目的が、
「日本を永久に武装解除されたままにしておくため」であった。
日本語も日本も知らない三十九歳のケーディスとスタッフが、「日本国憲法」の起草を命じられて十日足らずで書き上げた。その三十五年後に七十五歳になっていたケーディスに古森記者が取材した前掲記事によると、
彼は、「びっくりするほどの率直さで答えた」という。
そして、古森記者は
「こちらの印象を総合すれば、日本の憲法は、これほどおおざっぱに、これほど一方的に、これほどあっさりと書かれたのか、というショックだった」と書いている。
さらに、「神聖なはずの日本国憲法が実は若き米人幕僚たちによってあわただしく作られ、しかも日本人が作ったとして発表されていた、というのだ」と小森氏のショックは続く。
極めつけは、次のくだりである。
「同氏(ケーディス)はまず第九条の核心ともいえる『交戦権』の禁止について『日本側が削除を提案するように私はずっと望んでいたのです。何故なら、交戦権というのが一体、なにを意味するのか私にはわからなかったからです』と述べて笑うのだった。」
何ということであろうか!
書いた本人が正直に
「一体なにを意味するのか私にはわからなかった」と笑いながら告白しているのに、
それから、六十八年後になっても、
街頭には、「九条を守れ」というプラカードを掲げて人が立てば、TVカメラはそれを全国に放映し、
国会内では、九条の枠内で延々と馬鹿馬鹿しい議論が続いている。
憲法九条を書いたこのケーディスという野郎、今は年齢百五歳のはずだ。
生きていても亡くなっていても、古森記者に、
「びっくりするほどの率直さで答えた」ことを評価し、
「無邪気なヤンキーのあんたが意味が分からんと書いた九条を、まだ日本の国会の○○が盲信しとるぞ」
と報告し、
「あいつらに化けて出て、お前は○○か」
と言ってくれと要請したい(○○とは「あ」と「ほ」)。
自民と公明の与党は、一年以上にわたって「自衛権」のうち、
「あれはできる」が「これはできない」の議論を大真面目に続けてきて、
こんどは国会で、社会党的先祖返りをした野党が加わって、くそ暑い中、やっている。
与党のもともと馬鹿馬鹿しい妄想の上に、
野党の、さらに馬鹿馬鹿しい妄想が積み重なっているのであるから、たまったものではない。
私に電話をかけてくれた先輩の、
「馬鹿馬鹿しいからメシ食いに行こう」が極めて適切で正しい。
さて、馬鹿馬鹿しいことにこだわっていても生産的ではない。
従って、ことの本質を述べたい。
まず第一に、
国家の自衛権は、国家が国家であれば、制限なく行使するのだ。
緊急事態の中で、「あれは行使できるが、これは行使できない」というような自衛権はない。
従って、内閣総理大臣(大統領)が、
(自衛権を)「行使する」と言ったら、それだけで議論の余地はない、議論終了。
これが「最高指揮官」というものだ。
あとは「最高指揮官」から、
緊急事態に対処することを命じられた指揮官の「本能と知性」(ドゴール将軍)に委ねられる。
これがシビリアン・コントロールというものだ。
安倍総理は、
与党内の馬鹿馬鹿しい議論の前に、
集団的自衛権を「行使する」と明言した。
よって、こいれで十分である。
アメリカは、この安倍総理の明言を受けとめ評価して、
四月二十九日の上下両院での安倍演説に拍手したのである。
我が国にいま必要なことは、
「平和のための戦略」である。
「平和のための戦略」とは、即ち、「平和を願うならば、戦いに備えよ」ということである。
現在の国会に欠落しているのは、これだ。
現在、マスコミが全国に放映したがるプラカードには「戦争するな」と書かれている。
これに対して、
責任在る者は、次の通り答えねばならない。
「戦争ができなければ平和を守れない」
「軍備よりも福祉を」というスローガンに対しては、
「国防は最大の福祉である」と断固として答えなければならない。
国会内の○○が、「この法案は、戦争をするための法案でしょう」と質問すれば、
「その通りだ」と明言しなければならない。
我が国を取り巻く情勢は、これほど厳しい!
西村眞悟の時事通信より。
「日本を永久に武装解除されたままにしておくために起案した」(チャールズ・ケーディス大佐)憲法九条
の施行から六十八年が経過している。
そして、現在、国会でいわゆる安保法制議論(妄論)が行われている、というわけだ。
では、その議論とは、一体、何だ?
私の知り合いで、TVで「その議論」を見て聞いた人の総ては、馬鹿馬鹿しいと言った!
弁護士の大先輩が、電話をかけてくれて、
「テレビを視てたら、アホらしいて、あいつらアホか、メシ食いに行こう」と誘ってくれた。
つまり、その議論とは、現場の現実から遊離した「妄想合戦」なのだ。
何故、そうなのか。
「日本を永久に武装解除されたままにしておくために起案した憲法九条」の枠内の議論であるからだ。
馬鹿馬鹿しいではないか。
この「」の中の言葉は、憲法九条を起草したチャールズ・ケーディスが、
一九八一年四月に、産経新聞の古森義久記者に語ったことばである(産経新聞朝刊、平成十九年七月一日)。
彼は、一九四六年二月、三十九歳の時、
我が国を軍事占領していたGHQ(連合軍総司令部)の民政局次長・陸軍大佐であり、
米統合参謀本部やマッカーサー総司令官から命じられて、
十数人のスタッフを率いて十日足らずで一気に「日本国憲法」を書き上げた。
その米統合参謀本部やマッカーサー総司令官が、
ケーディスに「日本国憲法」の起草を命じた目的が、
「日本を永久に武装解除されたままにしておくため」であった。
日本語も日本も知らない三十九歳のケーディスとスタッフが、「日本国憲法」の起草を命じられて十日足らずで書き上げた。その三十五年後に七十五歳になっていたケーディスに古森記者が取材した前掲記事によると、
彼は、「びっくりするほどの率直さで答えた」という。
そして、古森記者は
「こちらの印象を総合すれば、日本の憲法は、これほどおおざっぱに、これほど一方的に、これほどあっさりと書かれたのか、というショックだった」と書いている。
さらに、「神聖なはずの日本国憲法が実は若き米人幕僚たちによってあわただしく作られ、しかも日本人が作ったとして発表されていた、というのだ」と小森氏のショックは続く。
極めつけは、次のくだりである。
「同氏(ケーディス)はまず第九条の核心ともいえる『交戦権』の禁止について『日本側が削除を提案するように私はずっと望んでいたのです。何故なら、交戦権というのが一体、なにを意味するのか私にはわからなかったからです』と述べて笑うのだった。」
何ということであろうか!
書いた本人が正直に
「一体なにを意味するのか私にはわからなかった」と笑いながら告白しているのに、
それから、六十八年後になっても、
街頭には、「九条を守れ」というプラカードを掲げて人が立てば、TVカメラはそれを全国に放映し、
国会内では、九条の枠内で延々と馬鹿馬鹿しい議論が続いている。
憲法九条を書いたこのケーディスという野郎、今は年齢百五歳のはずだ。
生きていても亡くなっていても、古森記者に、
「びっくりするほどの率直さで答えた」ことを評価し、
「無邪気なヤンキーのあんたが意味が分からんと書いた九条を、まだ日本の国会の○○が盲信しとるぞ」
と報告し、
「あいつらに化けて出て、お前は○○か」
と言ってくれと要請したい(○○とは「あ」と「ほ」)。
自民と公明の与党は、一年以上にわたって「自衛権」のうち、
「あれはできる」が「これはできない」の議論を大真面目に続けてきて、
こんどは国会で、社会党的先祖返りをした野党が加わって、くそ暑い中、やっている。
与党のもともと馬鹿馬鹿しい妄想の上に、
野党の、さらに馬鹿馬鹿しい妄想が積み重なっているのであるから、たまったものではない。
私に電話をかけてくれた先輩の、
「馬鹿馬鹿しいからメシ食いに行こう」が極めて適切で正しい。
さて、馬鹿馬鹿しいことにこだわっていても生産的ではない。
従って、ことの本質を述べたい。
まず第一に、
国家の自衛権は、国家が国家であれば、制限なく行使するのだ。
緊急事態の中で、「あれは行使できるが、これは行使できない」というような自衛権はない。
従って、内閣総理大臣(大統領)が、
(自衛権を)「行使する」と言ったら、それだけで議論の余地はない、議論終了。
これが「最高指揮官」というものだ。
あとは「最高指揮官」から、
緊急事態に対処することを命じられた指揮官の「本能と知性」(ドゴール将軍)に委ねられる。
これがシビリアン・コントロールというものだ。
安倍総理は、
与党内の馬鹿馬鹿しい議論の前に、
集団的自衛権を「行使する」と明言した。
よって、こいれで十分である。
アメリカは、この安倍総理の明言を受けとめ評価して、
四月二十九日の上下両院での安倍演説に拍手したのである。
我が国にいま必要なことは、
「平和のための戦略」である。
「平和のための戦略」とは、即ち、「平和を願うならば、戦いに備えよ」ということである。
現在の国会に欠落しているのは、これだ。
現在、マスコミが全国に放映したがるプラカードには「戦争するな」と書かれている。
これに対して、
責任在る者は、次の通り答えねばならない。
「戦争ができなければ平和を守れない」
「軍備よりも福祉を」というスローガンに対しては、
「国防は最大の福祉である」と断固として答えなければならない。
国会内の○○が、「この法案は、戦争をするための法案でしょう」と質問すれば、
「その通りだ」と明言しなければならない。
我が国を取り巻く情勢は、これほど厳しい!
西村眞悟の時事通信より。