任務の「安全性」ではなく「必要性」が語られるべきではないか?
安保関連法案審議入り。
連載:国防最前線安倍首相(右)は、安全保障関連法案の審議に臨んだ=5月28日、衆院第1委員室
国会では今まさに安保関連法案が審議入りし、連日の報道も過熱している。そんな中で、よく聞かれるのが「自衛官の気持ちが知りたい」というもの。
これに対し、いつも述べているのは、約24万人もの自衛官の心の内は千差万別であり、分かるはずはないということだ。そもそも、自衛官はこの疑問自体に疑問を抱くのではないだろうか。
彼らは「行け」と命じられれば行くし、「戻れ」と言われれば戻って来るのであり、そこに個人的な感情を挟む余地などない。心配があるとすれば、政治的な理由による嘘やごまかしの中で活動させられることではないかと私は思う。
その観点からすると、国会で論戦の場にある先生たちには大変申し訳ないが、一連のやりとりや新聞・ニュースを見ることは自衛官たちの心の健康に悪い影響を及ぼすような気がしてならない。
自衛隊では、新しい法体系ができればそれを懸命に勉強するのであろうが、それは真にあるべき姿なのだろうか。海外で活動しようがしまいが、各国軍との人的交流が外交・安全保障上大きな役割を果たしている面があり、諸外国は日本の法律を見ているわけでなく軍人同士の信頼関係により情報を共有しているのである。
自衛官はしばしば、その関係を失墜させるような行動、友情にヒビを入れるような振る舞いを強いられることがある。それによる苦悩や損失のほうが「戦争に巻き込まれる」といった心配よりもはるかに大きいのではないだろうか。
また、国外へと活動の範囲を広げるのだとすれば、多くの隊員が持つべき知識は日本独自の法規制ではなく、国際法となるはずだ。しかし、自衛隊ではそれよりも新しい国内法を必死に身に付けようとするだろう。
そもそも、機雷の掃海が武力の行使かどうかや、停戦後かその前かといったことはそんなに大事な要素なのだろうか。機雷は「そこにあるかもしれない」だけでタンカーは通れなくなり、停戦も終戦も知らずに居続ける。
また、戦争状態に入っていなくても機雷敷設は考えられ、始まっていない戦争に停戦はない。つまり、機雷の掃海作業はどのような状況下でも触雷の危険が付いて回るのである。
そろそろ任務の「安全性」ではなく「必要性」が語られるべきではないか。戦後長きにわたり秘匿された掃海殉職者や、十分な準備もできないまま木造掃海艇で遠路ペルシャ湾に赴いた人々のためにも。
■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)、「武器輸出だけでは防衛産業は守れない」(並木書房)など。
ZAKZAK 夕刊フジ