地上戦の犠牲になったのは沖縄だけではない。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【不肖・宮嶋 コラコラ記】
米軍の沖縄上陸から70年。地上戦の犠牲になったのは沖縄だけじゃない。



日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式で、記念碑に献花する米海兵隊退役中将のスノードン氏(左から2人目)=3月21日


よせばええのに、わが政府の官房長官が沖縄県民と知事のごきげんとるため、沖縄へ行った。

 時折しも70年前のちょうど今頃、読谷(よみたん)村の沖合はまさに上陸してくる米軍艦船で埋まった。以後、沖縄県民は戦火に追われながらも戦い続け、女学生からなる、ひめゆり部隊までも犠牲になったのは史実の通りである。その沖縄県民の奮闘と県民が背負った多大な犠牲を鑑み、海軍陸戦隊の大田実中将は決別電文で「沖縄県民は戦い抜いた。後ほど(戦後)特別の配慮を頂きたくお願いする」(現代語訳)と内地へ送ったぐらいである。

 そんな沖縄県民に戦後、米軍基地負担という重荷を背負ってもらいながらも、ヤマトンチュー(内地人)は大田中将の電文通り、沖縄県民へ多大な経済的援助を施してきたのも事実である。

 そして、今もこう言う沖縄県民がおる。「日本で唯一、地上戦に巻き込まれ、幾万の県民の犠牲者が出た」と。これは史実とちゃうぞ。

 この沖縄の海が米軍艦船で埋め尽くされる直前、沖縄から約1000キロ離れた硫黄島では栗林忠通(ただみち)大将率いる2万2000の陸海軍将兵の奮闘むなしく、組織的戦闘が終わったのである。

 ただし…当時は栗林中将の薦めもあり、壕(ごう)建設推進のため、軍属となって残った一部の島民以外の全民間人が内地へ疎開したので「地上戦で民間人の犠牲が出たのは(樺太など外地を除き)唯一沖縄である」というのが正確な表現である。

そして、沖縄のひめゆり部隊はもちろん、硫黄島への派遣部隊、そして戦死将兵の氏名、所属部隊、出身地が判明しているのである。全将兵ひとり残らず。これぞ、まごうことなき歴史的証拠というのである。

 重要なのは、このちっぽけな硫黄島で、沖縄戦と同じ…いやそれ以上の壮絶な戦いが繰り広げられたということである。それはこの硫黄島が沖縄以上に、日米双方にとって戦略的に、また本土防衛上、重要だったからである。その理由、また詳細についてはこのコラムでは表しきれるもんやないが、死傷者だけ見ても、酸鼻を極める戦いが容易に想像できる。

 日本側は1カ月以上の地上戦で約2万2000人のうち軍属80人を含む約1万8000人が戦死。事実上全滅したものの、米側の死傷者も約2万8000人と日本側を上回った。擂鉢(すりばち)山に掲げられた星条旗の写真はワシントンのアーリントン戦没者墓地はじめ、全米各地の基地で銅像となっとるぐらいなのである。

 今年2月21日、70年前、米軍が上陸した通称「上陸海岸」で日米合同の慰霊祭が執り行われ、不肖・宮嶋もアメリカ側という変則的な方法で出席させてもろた。今や少なくなった日米双方の退役軍人とその遺族たちは、かつての恩讐(おんしゅう)を越えて祈りをささげた。この戦いの末に「漁夫の利」を得た者など決して存在しないのである。

 ■宮嶋茂樹(みやじま・しげき) 報道カメラマン。1961年、兵庫県明石市生まれ。日本大学芸術学部卒業後、「フライデー」専属カメラマンをへて、フリーになり、数々のスクープ写真を撮影。世界の戦場でも取材を行う。