平成27年3月10日(火)
本日、三月十日は、
百十年前は、奉天大会戦勝利の日(陸軍記念日)、
七十年前は、東京大空襲の日、
そして、四年前の翌十一日は、千年に一度の大地震と巨大津波が東日本を襲った日である。
まず東京大空襲に関して、
この大空襲の発想は、アメリカ軍創設時に入力された遺伝子から生まれた。
アメリカ軍は何のために創設されたのか。
それは、ネイティブアメリカンであるインディアンを殺戮する為である。
白人の入植地(領域)を西に向かって拡げ続けて、その領域を太平洋に達するまで拡大する為である。
しかし、彼らの西に広がる大地は、無主の地ではなく先住者のインディアンが暮らす大地であった。
従って、白人の開拓入植とは、インディアンの大地を奪うことであり、
大地を守ろうとするインディアンを殺戮して根絶やしにすることであった。
それが、「神から与えられた使命だ」と彼ら白人は自らを正当化した。
では、如何にして彼ら白人は、インディアンを駆逐したのか。
彼らは、インディアンの男達・戦士と草原で相まみえて雌雄を決したのではない。
当時、インディアンの戦士は勇敢で無敵であった。
インディアンの弓の発射スピードは、白人の元込銃を遙かに凌いでいた。
そこで、白人(アメリカ軍)は、何をしたのか。
彼らは、インディアンの戦士を戦場で打ち倒すことを目的にせず、
戦士が出払って留守になった女と子供と老人だけのインディアンのキャンプを襲って戦士の家族を絶滅させることを作戦目的にしたのだ。
そして、この作戦は見事に成功し、指揮官は勲章をもらった。
また、西部劇でおなじみのように、一般人もインディアン狩りに参加していて、
インディアンの「頭の皮」に賞金がつけられていた。
「耳のついたインディアンの頭の皮」一枚には、二十五ドルが支払われた。
驚くべきことに、我が国では、幕末の頃から日清戦争の頃まで、つまり一九世紀後半まで、
アメリカ軍と開拓者は、インディアンの婦女子を虐殺し続けていたのである。
二十世紀に入った頃の大統領であるセオドア・ルーズベルトも、
インディアンジェノサイド(民族浄化)を実行したアメリカ軍の指揮官と将兵を讃えている。
このアメリカ軍の無抵抗なインディアンに対する虐殺は、
サンドクリークの虐殺、ウォシタ川の虐殺そしてウンデッド・ニーの虐殺などとして伝えられている。
何れも指揮官には勲章が与えられた。
その中のコロラド州サンドクリークの虐殺は、
戦士達がバッファロー狩りに出た後の男子が三十五人しかいない婦女子六百人のキャンプをアメリカ軍が襲って全員皆殺しにした事件であった。
何故、この事件を紹介するかと言えば、
指揮官が兵士に、ナチスがユダヤ人を子供も含めてジェノサイドするときと同じ言葉
「卵はシラミになるから殺せ」を、その七十年前に既に使っているからであり、
アメリカ軍のインディアン婦女子の殺害と死体損壊の有様が、
昭和十二年(一九三七年)の通州事件の支那人の行状と同じだからである。
彼らは、損壊した女性の死体の一部を帽子につけ、または棒のうえに掲げて、デンバーを行進した。
この鬼畜の行いを、セオドア・ルーズベルト大統領は、
「白人の使命」を果たしたと二〇世紀に入っても賞賛したのである。
これが、アメリカの歴史だ。
本筋に戻る。
アメリカ軍の遺伝子は、
戦場の兵士がいない婦女子だけになったキャンプ(銃後)を襲って無防備な非戦闘員を殺戮することである。
本日の東京大空襲は、この遺伝子に基づく民族浄化の為の殺戮である。
そして、このアメリカ軍の民族浄化の衝動(願望)は、
インディアンを居留地に収容して骨向きにしたように、
我が国に対する占領政策に具体化されている。それが、「戦後」なのだ。
では、彼らが創った「居留地」とは何か。
それは、「日本国憲法」と「東京裁判(自虐史観)」である。
次ぎに、奉天大会戦に関して、
百十年前の本日午後五時頃、第二軍第四師団(大阪)隷下の大阪歩兵第三七聯隊第二大隊は、奉天城に突入し、各門に小隊を配備して奉天城中央に日の丸を掲げた。
そして、総司令官大山巌元帥は、奉天大会戦の終結を宣言した。
この会戦は、奉天を中心にして東西百五十キロ、南北七十キロを戦場とした世界陸戦史上最大の会戦である。
動員兵力は日本軍二十五万、ロシア軍三十四万である。
三月一日、大山巌総司令官は、旅順から駆けつけた乃木第三軍を含む全軍二十五万に総攻撃を命じた。
文字通り日本の全軍であった。従って、この大会戦で日本軍が崩れれば、即、日本が崩壊する。
総攻撃命令以来十日、日本軍将兵は一万六千五百五十三名の戦死者、五万三千四百七十五名の負傷者をだしながら戦い続けた。
休みなく続く日本軍の攻撃に、ロシア軍のクロパトキン総司令官は、
日本軍は有力な予備戦力を持っているに違いないと怖れた。
しかし、日本軍の予備戦力はなかった。
一人一人の兵士が昼夜眠らず食わず前進を続けてクロパトキンに迫ってきているだけであった。
クロパトキンは、日本軍左翼(西側)から迫ってくる乃木第三軍に、奉天から北に延びる鉄道を遮断され奉天に閉じこめられる事態になることを怖れた。
そして、三月九日午後五時三十分、ロシア軍に、北の鉄嶺への総退却を命じた。
第三軍の司令官乃木希典大将は、麾下の各師団に攻撃を命じたが、
各師団は兵力の減少甚だしく、砲弾既になく疲弊し、鉄道遮断を果たし得なかった。
無念であるが、クロパトキンを捕虜にできる最後のチャンス、長蛇、を逸したのである。
三月十日午後二時、奧第二軍は、奉天偵察の為に将校斥候を放った。
将校が、奉天に近づくと、城内から出てきた清国人が、ロシア軍の軍服や家具を担いだり荷馬車に積んだりして歩いてくる。
ロシアの軍事物資が掠奪されていると判断した将校は、意を決して奉天城に入った。
午後三時頃、将校斥候から「奉天城に敵影なし」と第二軍に報告。
そして、午後五時頃、大阪歩兵第三七聯隊第二大隊が奉天城に日の丸を掲げた。
以後、GHQに歴史を奪われるまで、三月十日は「陸軍記念日」であった。
降伏後初めての昭和二十一年三月十日を「陸軍記念日」として祝ったのかどうか知らないが、
昭和二十年九月二日の降伏文書調印によって、
帝国陸海軍は既に武装解除されているので祝わなかったのではないだろうか。
我が国の歴史を義務教育で子供達に教えることが当然のことだとするならば、
日本国家と日本民族の存亡をかけた
三月十日の奉天大会戦勝利の日と
五月二十七日の日本海海戦勝利の日を
再び、「陸軍記念日」そして「海軍記念日」として祝うべきであると思う。
明日三月十一日の戦後史最大の意義については、改めて述べる。
西村眞悟の時事通信より。
百十年前は、奉天大会戦勝利の日(陸軍記念日)、
七十年前は、東京大空襲の日、
そして、四年前の翌十一日は、千年に一度の大地震と巨大津波が東日本を襲った日である。
まず東京大空襲に関して、
この大空襲の発想は、アメリカ軍創設時に入力された遺伝子から生まれた。
アメリカ軍は何のために創設されたのか。
それは、ネイティブアメリカンであるインディアンを殺戮する為である。
白人の入植地(領域)を西に向かって拡げ続けて、その領域を太平洋に達するまで拡大する為である。
しかし、彼らの西に広がる大地は、無主の地ではなく先住者のインディアンが暮らす大地であった。
従って、白人の開拓入植とは、インディアンの大地を奪うことであり、
大地を守ろうとするインディアンを殺戮して根絶やしにすることであった。
それが、「神から与えられた使命だ」と彼ら白人は自らを正当化した。
では、如何にして彼ら白人は、インディアンを駆逐したのか。
彼らは、インディアンの男達・戦士と草原で相まみえて雌雄を決したのではない。
当時、インディアンの戦士は勇敢で無敵であった。
インディアンの弓の発射スピードは、白人の元込銃を遙かに凌いでいた。
そこで、白人(アメリカ軍)は、何をしたのか。
彼らは、インディアンの戦士を戦場で打ち倒すことを目的にせず、
戦士が出払って留守になった女と子供と老人だけのインディアンのキャンプを襲って戦士の家族を絶滅させることを作戦目的にしたのだ。
そして、この作戦は見事に成功し、指揮官は勲章をもらった。
また、西部劇でおなじみのように、一般人もインディアン狩りに参加していて、
インディアンの「頭の皮」に賞金がつけられていた。
「耳のついたインディアンの頭の皮」一枚には、二十五ドルが支払われた。
驚くべきことに、我が国では、幕末の頃から日清戦争の頃まで、つまり一九世紀後半まで、
アメリカ軍と開拓者は、インディアンの婦女子を虐殺し続けていたのである。
二十世紀に入った頃の大統領であるセオドア・ルーズベルトも、
インディアンジェノサイド(民族浄化)を実行したアメリカ軍の指揮官と将兵を讃えている。
このアメリカ軍の無抵抗なインディアンに対する虐殺は、
サンドクリークの虐殺、ウォシタ川の虐殺そしてウンデッド・ニーの虐殺などとして伝えられている。
何れも指揮官には勲章が与えられた。
その中のコロラド州サンドクリークの虐殺は、
戦士達がバッファロー狩りに出た後の男子が三十五人しかいない婦女子六百人のキャンプをアメリカ軍が襲って全員皆殺しにした事件であった。
何故、この事件を紹介するかと言えば、
指揮官が兵士に、ナチスがユダヤ人を子供も含めてジェノサイドするときと同じ言葉
「卵はシラミになるから殺せ」を、その七十年前に既に使っているからであり、
アメリカ軍のインディアン婦女子の殺害と死体損壊の有様が、
昭和十二年(一九三七年)の通州事件の支那人の行状と同じだからである。
彼らは、損壊した女性の死体の一部を帽子につけ、または棒のうえに掲げて、デンバーを行進した。
この鬼畜の行いを、セオドア・ルーズベルト大統領は、
「白人の使命」を果たしたと二〇世紀に入っても賞賛したのである。
これが、アメリカの歴史だ。
本筋に戻る。
アメリカ軍の遺伝子は、
戦場の兵士がいない婦女子だけになったキャンプ(銃後)を襲って無防備な非戦闘員を殺戮することである。
本日の東京大空襲は、この遺伝子に基づく民族浄化の為の殺戮である。
そして、このアメリカ軍の民族浄化の衝動(願望)は、
インディアンを居留地に収容して骨向きにしたように、
我が国に対する占領政策に具体化されている。それが、「戦後」なのだ。
では、彼らが創った「居留地」とは何か。
それは、「日本国憲法」と「東京裁判(自虐史観)」である。
次ぎに、奉天大会戦に関して、
百十年前の本日午後五時頃、第二軍第四師団(大阪)隷下の大阪歩兵第三七聯隊第二大隊は、奉天城に突入し、各門に小隊を配備して奉天城中央に日の丸を掲げた。
そして、総司令官大山巌元帥は、奉天大会戦の終結を宣言した。
この会戦は、奉天を中心にして東西百五十キロ、南北七十キロを戦場とした世界陸戦史上最大の会戦である。
動員兵力は日本軍二十五万、ロシア軍三十四万である。
三月一日、大山巌総司令官は、旅順から駆けつけた乃木第三軍を含む全軍二十五万に総攻撃を命じた。
文字通り日本の全軍であった。従って、この大会戦で日本軍が崩れれば、即、日本が崩壊する。
総攻撃命令以来十日、日本軍将兵は一万六千五百五十三名の戦死者、五万三千四百七十五名の負傷者をだしながら戦い続けた。
休みなく続く日本軍の攻撃に、ロシア軍のクロパトキン総司令官は、
日本軍は有力な予備戦力を持っているに違いないと怖れた。
しかし、日本軍の予備戦力はなかった。
一人一人の兵士が昼夜眠らず食わず前進を続けてクロパトキンに迫ってきているだけであった。
クロパトキンは、日本軍左翼(西側)から迫ってくる乃木第三軍に、奉天から北に延びる鉄道を遮断され奉天に閉じこめられる事態になることを怖れた。
そして、三月九日午後五時三十分、ロシア軍に、北の鉄嶺への総退却を命じた。
第三軍の司令官乃木希典大将は、麾下の各師団に攻撃を命じたが、
各師団は兵力の減少甚だしく、砲弾既になく疲弊し、鉄道遮断を果たし得なかった。
無念であるが、クロパトキンを捕虜にできる最後のチャンス、長蛇、を逸したのである。
三月十日午後二時、奧第二軍は、奉天偵察の為に将校斥候を放った。
将校が、奉天に近づくと、城内から出てきた清国人が、ロシア軍の軍服や家具を担いだり荷馬車に積んだりして歩いてくる。
ロシアの軍事物資が掠奪されていると判断した将校は、意を決して奉天城に入った。
午後三時頃、将校斥候から「奉天城に敵影なし」と第二軍に報告。
そして、午後五時頃、大阪歩兵第三七聯隊第二大隊が奉天城に日の丸を掲げた。
以後、GHQに歴史を奪われるまで、三月十日は「陸軍記念日」であった。
降伏後初めての昭和二十一年三月十日を「陸軍記念日」として祝ったのかどうか知らないが、
昭和二十年九月二日の降伏文書調印によって、
帝国陸海軍は既に武装解除されているので祝わなかったのではないだろうか。
我が国の歴史を義務教育で子供達に教えることが当然のことだとするならば、
日本国家と日本民族の存亡をかけた
三月十日の奉天大会戦勝利の日と
五月二十七日の日本海海戦勝利の日を
再び、「陸軍記念日」そして「海軍記念日」として祝うべきであると思う。
明日三月十一日の戦後史最大の意義については、改めて述べる。
西村眞悟の時事通信より。