平成27年3月1日(日)
本日の産経新聞朝刊の一面は、「建国ブログ激励相次ぐ」との見出しで、
一宮市教育委員会からの注意によって全文削除された一宮市立中学校校長が書いた、
我が国の神話や統治の根底にある「天皇と民の絆」に関するブログ全文を掲載した二月二十二日付け記事に対する読者からの意見が掲載されている。
一面トップに値する読者の意見紹介である。
何故なら、この一面は、
「教育委員会」のみならず、
戦後からの脱却を掲げる「安倍内閣」そのものが、
「穏便に、波風立てずに」事態を処理するために立て籠もって出ようとしない「戦後体制の空気」を、
国民(読者)の意識は既に突き抜けていることを示すものだからである。
時あたかも、
安倍内閣は「戦後七十年安倍総理大臣談話」作成に関して各界からの各意見を聴取するための、
「教育委員会的意見」が大勢を占めるように造られた「有識者懇談会」の初会合を開いている。
従って、産経新聞による二月二十二日の校長ブログ全文掲載と、
これに対する本日の読者の意見紹介は、
「戦後体制的空気」から脱却した「安倍談話」を
如何にして作成すべきかを如実に示すものになった。
我が国と国民の意識が、七十年を経ても
「戦後体制内にとどまる」のか、
それとも
「戦後体制から脱却する」のか、
これは世界の大勢と動向に影響を与えることである。
従って、本日の産経朝刊は、一面トップに値する読者の意見を掲載しているといえるのだ。
よって、安倍晋三内閣総理大臣、
この一宮市立中学校校長、この教育者が、
自分の誠と全一的信念のみによって、子供達の魂に祖国への愛と誇りを伝えようとしたことを見習い、
総理大臣たる安倍晋三の、
祖国への至誠に基づいて、
祖国への愛と誇りを以て、
かつ、それのみに依って、
「安倍内閣総理大臣談話」
を作成されたい。
ゆめゆめ、
「教育委員会」、いや、「有識者懇談会」というもっともらしいレッテルの「戦後体制的空気」
に身を委ねてはならんぞ。
それをすれば、
貴兄の肉体と精神は、再びつぶれるぞ。
日本を甘く見るなよ!
村山富市も河野洋平も、既に、廃人。
貴兄は、この廃人のなかに入るな!
さて、三月一日である。
奉天のことを述べておく。
百十年前の本日三月一日、
大山巌満州軍総司令官は、
全日本陸軍に奉天に立て籠もるロシア軍に対する総攻撃を下命した。
世界陸戦史上空前の大兵力による奉天大会戦である。
期間 明治三十八年(一九〇五年)二月二十五日~三月十日
参加兵力、 日本軍二十四万九八〇〇名、ロシア軍三十七万九六〇〇名
砲数 日本軍九九〇門、ロシア軍一二〇〇門
戦線 奉天を中心に東西一五〇キロ、南北八〇キロ
戦死者 日本軍一万六五五三名、ロシア軍八七〇五名
戦傷者・捕虜 日本軍五万三四七五名・四〇四名、ロシア軍五万一三八八名・二万一七九一名
この百十年前の奉天の戦いで我が国が負けておれば、
我々は日本人として生まれていない。
安倍晋三の談話などあるはずがない。
彼らが、黄塵の満州の荒野で戦い斃れたから、今の我々がある。
そして、斃れた彼ら兵士の魂魄は、我が国に今も留まっている。
従って、彼らを辱める談話を発表する者は、廃人となる!
前にも書いたが、
昨年暮れの急な寒波のなかの総選挙において、
私が何時も心に浮かべ続けてきた情景は、極寒の満州における日本軍将兵の姿であった。
十一月二十六日は、乃木希典軍司令官が第三軍に第三次旅順要塞総攻撃を命じた日であった。
十二月五日は、二〇三高地陥落の日、
一月一日は、旅順要塞陥落の日。
一月中旬、乃木第三軍は、いよいよ奉天に向かって北上を開始する。
そして、
「奉天の大会戦は、乃木大将が到着して初めて開始されたのである」(従軍記者スタンレー・ウォッシュバン)
「戦争開始の瞬間から、乃木大将の名は、ロシア軍の翼端から翼端まで恐怖の響きを伝えていた。
乃木が大山に合体したことだけは総てのロシア兵に分かっていたが、
何処に打って出るかを知るものは一人もいなかった。
・・・乃木という人物は悪霊の権化か戦いの魔神のように思われた。
・・・日本軍は巧みに覚えたロシア語の喊声を掲げ、
『我らは旅順の日本軍ぞ』と叫んで追撃した。」(同)
「軍人として軍隊として、この奉天における乃木大将とその部下ほど怖れられたものは絶無であった。」(同)
しこうして、奉天占領は、乃木第三軍の左翼からの迂回攻撃によりもたらされた。
三月十日午後五時頃、
奧第二軍第四師団大阪第三十七聯隊第二大隊、大西辺門から奉天城に入城し、
日章旗を掲げて城内中央に進む。
ここにおいて、大山巌総司令官、奉天大会戦の終結を宣言する。
そして、奉天大会戦における日本軍の死傷者約七万人の内、
一万八千五百人という最大の損害を出したのは乃木第三軍であった。
この奉天戦において、
荒野に横たわる約一万六千余の戦死者の状況を総司令部付川上素一大は次のように報告した。
「このような戦闘は、命令や督戦でできるものではありません。
兵士一人一人が、『勝たねば日本は亡びる』とはっきり知っていて、
命令されなくとも。自分から死地に赴いています。」
また乃木希典軍司令官は、明治天皇に次の通り報告した。
「しこうして作戦十六ヶ月間、
我が将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈、死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るる者、
皆、陛下の万歳を歓呼し欣然と瞑目したるは、臣、これを伏奏せざらんと欲するも能はず。」
西村眞悟の時事通信より。
一宮市教育委員会からの注意によって全文削除された一宮市立中学校校長が書いた、
我が国の神話や統治の根底にある「天皇と民の絆」に関するブログ全文を掲載した二月二十二日付け記事に対する読者からの意見が掲載されている。
一面トップに値する読者の意見紹介である。
何故なら、この一面は、
「教育委員会」のみならず、
戦後からの脱却を掲げる「安倍内閣」そのものが、
「穏便に、波風立てずに」事態を処理するために立て籠もって出ようとしない「戦後体制の空気」を、
国民(読者)の意識は既に突き抜けていることを示すものだからである。
時あたかも、
安倍内閣は「戦後七十年安倍総理大臣談話」作成に関して各界からの各意見を聴取するための、
「教育委員会的意見」が大勢を占めるように造られた「有識者懇談会」の初会合を開いている。
従って、産経新聞による二月二十二日の校長ブログ全文掲載と、
これに対する本日の読者の意見紹介は、
「戦後体制的空気」から脱却した「安倍談話」を
如何にして作成すべきかを如実に示すものになった。
我が国と国民の意識が、七十年を経ても
「戦後体制内にとどまる」のか、
それとも
「戦後体制から脱却する」のか、
これは世界の大勢と動向に影響を与えることである。
従って、本日の産経朝刊は、一面トップに値する読者の意見を掲載しているといえるのだ。
よって、安倍晋三内閣総理大臣、
この一宮市立中学校校長、この教育者が、
自分の誠と全一的信念のみによって、子供達の魂に祖国への愛と誇りを伝えようとしたことを見習い、
総理大臣たる安倍晋三の、
祖国への至誠に基づいて、
祖国への愛と誇りを以て、
かつ、それのみに依って、
「安倍内閣総理大臣談話」
を作成されたい。
ゆめゆめ、
「教育委員会」、いや、「有識者懇談会」というもっともらしいレッテルの「戦後体制的空気」
に身を委ねてはならんぞ。
それをすれば、
貴兄の肉体と精神は、再びつぶれるぞ。
日本を甘く見るなよ!
村山富市も河野洋平も、既に、廃人。
貴兄は、この廃人のなかに入るな!
さて、三月一日である。
奉天のことを述べておく。
百十年前の本日三月一日、
大山巌満州軍総司令官は、
全日本陸軍に奉天に立て籠もるロシア軍に対する総攻撃を下命した。
世界陸戦史上空前の大兵力による奉天大会戦である。
期間 明治三十八年(一九〇五年)二月二十五日~三月十日
参加兵力、 日本軍二十四万九八〇〇名、ロシア軍三十七万九六〇〇名
砲数 日本軍九九〇門、ロシア軍一二〇〇門
戦線 奉天を中心に東西一五〇キロ、南北八〇キロ
戦死者 日本軍一万六五五三名、ロシア軍八七〇五名
戦傷者・捕虜 日本軍五万三四七五名・四〇四名、ロシア軍五万一三八八名・二万一七九一名
この百十年前の奉天の戦いで我が国が負けておれば、
我々は日本人として生まれていない。
安倍晋三の談話などあるはずがない。
彼らが、黄塵の満州の荒野で戦い斃れたから、今の我々がある。
そして、斃れた彼ら兵士の魂魄は、我が国に今も留まっている。
従って、彼らを辱める談話を発表する者は、廃人となる!
前にも書いたが、
昨年暮れの急な寒波のなかの総選挙において、
私が何時も心に浮かべ続けてきた情景は、極寒の満州における日本軍将兵の姿であった。
十一月二十六日は、乃木希典軍司令官が第三軍に第三次旅順要塞総攻撃を命じた日であった。
十二月五日は、二〇三高地陥落の日、
一月一日は、旅順要塞陥落の日。
一月中旬、乃木第三軍は、いよいよ奉天に向かって北上を開始する。
そして、
「奉天の大会戦は、乃木大将が到着して初めて開始されたのである」(従軍記者スタンレー・ウォッシュバン)
「戦争開始の瞬間から、乃木大将の名は、ロシア軍の翼端から翼端まで恐怖の響きを伝えていた。
乃木が大山に合体したことだけは総てのロシア兵に分かっていたが、
何処に打って出るかを知るものは一人もいなかった。
・・・乃木という人物は悪霊の権化か戦いの魔神のように思われた。
・・・日本軍は巧みに覚えたロシア語の喊声を掲げ、
『我らは旅順の日本軍ぞ』と叫んで追撃した。」(同)
「軍人として軍隊として、この奉天における乃木大将とその部下ほど怖れられたものは絶無であった。」(同)
しこうして、奉天占領は、乃木第三軍の左翼からの迂回攻撃によりもたらされた。
三月十日午後五時頃、
奧第二軍第四師団大阪第三十七聯隊第二大隊、大西辺門から奉天城に入城し、
日章旗を掲げて城内中央に進む。
ここにおいて、大山巌総司令官、奉天大会戦の終結を宣言する。
そして、奉天大会戦における日本軍の死傷者約七万人の内、
一万八千五百人という最大の損害を出したのは乃木第三軍であった。
この奉天戦において、
荒野に横たわる約一万六千余の戦死者の状況を総司令部付川上素一大は次のように報告した。
「このような戦闘は、命令や督戦でできるものではありません。
兵士一人一人が、『勝たねば日本は亡びる』とはっきり知っていて、
命令されなくとも。自分から死地に赴いています。」
また乃木希典軍司令官は、明治天皇に次の通り報告した。
「しこうして作戦十六ヶ月間、
我が将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈、死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るる者、
皆、陛下の万歳を歓呼し欣然と瞑目したるは、臣、これを伏奏せざらんと欲するも能はず。」
西村眞悟の時事通信より。