紀元節に確認した「政府主催主権回復祝賀」が意味する重大事。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

平成27年2月12日(木)

 昨日の紀元節は、朝、岡山市に走り、岡山護国神社に参ったあと、紀元節祝賀行事の一環として
 「憲法改正について」という演題で話をさせていただいた。
 そのとき話した骨子を以下にご報告する。

1、およそ「法」の存在の仕方は「不文法」と「成文法」の二つがある。
 前者は、歴史と伝統に基づく人々の確信としての法であり後者は紙に文字で書かれた法である。
 そして、「成文法」は「不文法」を紙に書いたものか「不文法」に反しないものでなければ、
 結局は効力を認められない。不文法に反する成文法は死文となる。
 従って、「法」の最高規範である国家の根本規範としての憲法にも「不文の憲法」と「成文憲法」があり、
 前者は、歴史と伝統に裏打ちされた不文の憲法であり、
 それを文字にしたのが成文憲法典でなければならない。

 我が国の「成文憲法」は、明治二十二年二月十一日に公布された「大日本帝国憲法」であり、
 昭和二十一年十一月三日に公布された「日本国憲法」であると言われている。
 
 では、この「成文憲法」を裏打ちする不文の憲法とは何か。
 それは、本日の紀元節即ち神武創業を決定づけた「天照大神の天壌無窮の神勅」と、
 それに基づいて本日まで万世一系続いてきた我が国の形つまり「國體」である。
 
 この「國體」は、当地岡山に縁の深い和気清麻呂によって朝廷にもたらされた八世紀の宇佐八幡の神勅、
 次ぎに十四世紀の南朝の北畠親房の神皇正統記、
 さらに十九世紀の大日本帝国憲法および教育勅語によって、
 それぞれ国家の危機に際して確認されてきている。

 よって、現在、我が国では、
 「天照大神の天壌無窮の神勅」に基づいて途絶えることなく現在に至る「國體」としての「不文の憲法」と
 昭和二十一年十一月三日公布の「日本国憲法」と称する文書が「成文憲法」だと言うことになっている。
 と、いうより義務教育で子供達にそう教えている。

2、そこで、安倍内閣が成立して初めて迎えた平成二十五年四月二十八日、
 安倍内閣は政府主催の「主権回復を祝う会」を、天皇皇后両陛下のご臨席を仰いで憲政記念館において挙行したのである。
 敗戦、昭和二十年九月二日の降伏以来、
 二十七年四月二十七日まで我が国は連合国の軍事占領下におかれていた。
 しかし、昭和二十七年四月二十八日、
 我が国はサンフランシスコ講和条約発効によって主権を回復したのである。
 そして、安倍内閣は、この主権回復を公式に祝ったのだ。
 
 実にこれは、戦後政治史上画期的なことであった。
 しかし、安倍氏自身が、この画期的な意義を意識して祝っていたとは思われない。
 何故なら、主権回復祝賀会は、この一回だけで、以後、安倍内閣は忘れたように沈黙を続けているからである。

 では、何故、画期的か。
 それは、「四月二十八日の主権回復を祝う」ということは、
 「それ以前には我が国に主権が無かったこと」を公式に鮮明にしたことになるからである。
 
 従って、安倍内閣が、「主権回復を祝った」ということは、即ち、
 
 「日本国憲法」は主権のない時に書かれた無効な憲法であることを公式に宣言したことに他ならない。

 ハーグ陸戦法規を紐解くまでもなく、
 我が国に主権がないときに、
 我が国が憲法を公布そして施行などできない。
 従って、昭和二十一年十一月三日公布、翌二十二年五月三日施行の「日本国憲法」と称する文書は、
 我が国の憲法として無効である。

3、現在、憲法の改正の必要性が強く主張されている。
 これは、即ち、正しい憲法を希求する国民の当然の願いとしてまことに正統な主張である。
 
 しかし、昭和二十一、二年の「日本国憲法」は、
 学術論として無効であることも承知しておかねばならない。

 それは、現在の政治状況における憲法改正論の危険性に気付けば理解できる。
 本日の紀元節を祝う我々は改正論者で、
 他は「護憲派」だと思ってはならない。
 
 つまり、我が国の「護憲派」は最も危険な「改正論者」であることを忘れてはならない。
 
 社会党も共産党も、その他の左翼も、「護憲派」ではなく、
 実は改正勢力であり、改正論に雪崩れ込んできて、
 我が国を「民主主義人民共和国」に造りかえようとする反日勢力であることを忘れて、 
 「改正」さえできれば日本は好くなると楽観していてはならない。
 
 改正に雪崩れ込んでくる彼らは、憲法前文に言う「平和を愛する諸国民」である
 中共や北朝鮮や欧米の日本が弱体化すれば喜ぶ根強い勢力の支援を受けながら、
 
 我が国の不文の憲法における根本のもの、
 それが存在して初めて日本であり、
 それがなければ日本は日本でなくなるもの、
 即ち、
 我が国の至高の存在である万世一系の天皇を、
 日本から消し去ろうとしている勢力である。
 
 あの保守的だと言われている読売新聞の「憲法改正試案」においてさえ、
 天皇は、改正案の「第一章」ではなかった。
 
 天皇を、成文憲法の第一章としない「憲法」など、人民共和国憲法と何ら変わらない。
 これなら、GHQの兵隊が書いた今の「日本国憲法」の方がまだましではないか。
 条文など、解釈次第で如何様にも運用できる(法律家とは、その条文解釈を仕事としているのだ)。
 条文より大切なのは、「憲法」が反映している価値の体系である(立憲君主国か人民共和国か)。

 読売新聞でさえ、この程度なのだ。
 ましてをや、日本の多くは左翼系の有象無象と、その巧妙な宣伝で動くものではないか。
 また安倍内閣の与党の連中、これらの中身は分からんですぞ。

 以上の、現時点の情勢を観るとき、
 学術論として無効論を、堅持して、危機に備えておく必要があると理解していただきたい。

 では、法的世界における学術論とは何か、といえば、
 かつて韓国が一九一〇年の「日韓併合条約」は無効だと騒いでいた時に、
ハーバード大学がその主張を受けてオックスフォード大学やケンブリッジ大学と共同で検討し「有効だ」という結論を出した。これが学術論、こういうことだ。
 
 また、近い将来、某人民解放軍が朝鮮半島に雪崩れ込んできて半島全体に軍政をしいて支配し
「統一朝鮮民主主義人民共和国憲法」を公布して施行した。この「憲法」は有効かどうか。
「無効だ」という結論を出す。これが学術論である。
 この時、同じ他国の軍事占領下で作られた「日本国憲法」を「有効」としておいて、
「統一朝鮮民主主義人民共和国憲法」だけを「無効」とすることはできない。これが学術論である。

 以上、要するに、「日本国憲法」は、間違いなく無効なんだ。
 実は、このことを、公的に宣言したのが、
 平成二十五年の安倍内閣による「主権回復記念祝賀会」である。
 しかし、以後、安倍内閣は、
 自分で開けた「パンドラの箱」を見てみないようにして自民公明連立を維持している。
 国難は待ってくれないのに、実にじれったい。

4、本日の紀元節は、本来の日本の始まりを祝う日である。
 では、本来の日本とは何か、
 それは、主権を奪われたなかで、我が国から奪われたものを回復することによって姿を顕す。
 従って、本日の紀元節を祝うとは、
 本来の日本を回復させることである。
 
 そこで、連合国は降伏した日本から主権を奪い、その状況の中で日本から何を奪ったのか。
 それこそ、続々と「パンドラの箱」から出てきている。
 それは、
 憲法を奪った。
 軍隊を奪った。
 教育勅語を奪った。
 歴史を奪い教育を奪い誇りを奪った。
 命を奪い同時に名誉を奪った。

 以上が、我々が回復すべきものである。

西村眞悟の時事通信より。