【戦後70年、今も輝く 英霊たちの足跡】
人々の生活向上させる厳しい「愛」 テニアン島
ZAKZAK 夕刊フジテニアン島にある日本軍の砲台跡。激戦を物語る遺物が多く残されている
1944(昭和19)年7月24日、米軍はサイパン島に続いてテニアン島への上陸を開始した。迎え撃ったのは日本陸海軍総勢5万4000人。日本軍は勇戦敢闘するも衆寡敵せず。8月3日、ついに日本軍の組織的戦闘は終焉し、同島は米軍の手に落ちた。
そんな激戦の地は、南北16キロ、東西8キロ、人口約2500人の平坦(へいたん)な島である。中心街、サン・ホセ(旧テニアン町)を訪ねても人影はまばらだったが、戦前は現在の約7倍もの人口を抱え、活況を呈していた。約8キロ離れたサイパン島と同じく日本の信託委任統治領であり、南洋庁サイパン支庁テニアン出張所が設けられ、約1万8000人もの日本人が暮らしていた。
サン・ホセの中心から少し離れた場所には、戦火で大きな被害を受け、戦後再建された「住吉神社」(天仁安神社)があるほか、島の中央部には「日の出神社」もある。日の出神社の案内版にはこう記されている。
「テニアンの日本人による開発は、南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した26年ごろに始まりました。テニアンは特にサトウキビの栽培に適しており、10年以内に島の8割がサトウキビ畑になるほどの大耕地となりました。砂糖耕地の拡大に伴い、テニアンは日本人と日本文化の島となりました」
実際、旧テニアン町には、南洋興発の製糖工場や機関車操車場、興発住宅や専修学校などがあり、町の大部分は、南洋興発の関連施設であった。砂糖生産量は南洋最大で、日本国内でみても台湾に次ぐ生産量を誇っていた。製糖業がテニアンの経済を支えていたのである。
戦後、米統治領となると自力で島の経済を支える産業はなくなった。
現地在住の日本人女性が、テニアンの年配者から聞いたというこんな話をしてくれた。
「この島のお年寄りたちは『米国は確かに援助はしてくれたが、気づけばピザとハンバーガーとペプシコーラを与えられるだけだ。島民はみんな、おかしくなってしまった。一方、日本人は厳しかったが、モノをただ与えられる今に比べて、本当に幸せな時代だった』と言っていますよ。みんな、日本時代を懐かしがっているんですよ…」
働くことや学ぶことに日本人は厳しかったが、そこには現地の人々の暮らしを向上させようとする『愛』があった。だからこそ、日本時代を知る年配者は、日本時代への郷愁を感じているのだろう。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『国防の真実』(双葉社)、『尖閣武力衝突』(飛鳥新社)、『日本が戦ってくれて感謝しています-アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など。