【天皇の島から 戦後70年・序章(3)前半】
産経ニュース島民に投降勧めた日本兵 「道連れにできない」
アンガウル島の港に日本統治時代から残されたレール。採掘したリン鉱石を陸上から大きな船に運び込むために敷設されたものといわれている=パラオ共和国・アンガウル島(松本健吾撮影)
昭和19年9月15日、米軍がパラオ・ペリリュー島に上陸を試み、多くの死傷者を出したオレンジビーチ。真っ赤な夕日に包まれた浜辺を歩くと、70年前に米軍の艦船が大挙して島を取り囲み、倒れた日米両軍の兵士が幾重にも重なり合う光景が目に浮かぶ。
そのオレンジビーチの南側海上に平らな島が浮かんでいる。アンガウル島だ。ペリリューから南へ約11キロ。南北4キロ、東西3キロ、面積8平方キロと、ペリリューの半分以下しかない小さな島だ。かつては燐鉱石の採掘で知られたが、今も残る採掘跡は鬱蒼(うっそう)としたジャングルに呑み込まれてしまっていた。
島の西側にあるアラブルックル・タオ(アンガウル港)の波止場の入り口には、日本軍が取り付け、破損した鉄製のバリケードが残されている。採掘した燐鉱石を船まで運ぶトロッコ用のレールが海に向かって延びている。傍のアンガウル州事務所前には「本巣市消防団」と書かれた消防車が1台駐車しているが、壊れていて動きそうにない。
18年6月時点で、日本人1325人、島民も754人住んでいたが、ガイドのトリーシャさんによると、現在の人口は約170人になった。
トリーシャさんが準備してくれた軽トラックの荷台に乗り、出発する。1分もすると、ジャングルだ。木々にツタなどが絡み合い、まるで緑の洋服で着飾っているようにも見える。
ようやく1台が通れるだけの細い道を進む。アンガウル神社や宇都宮部隊59連隊の慰霊碑、米軍が上陸した北東部のレッドビーチと東部のブルービーチ、2100メートルの滑走路…。島は3、4時間で一周できるが、島全体が密林に覆われ、人の気配がない。
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米軍の第81師団がアンガウル島に上陸したのは44年(昭和19年)9月17日。東北港と東港に上陸した。
米軍の約2万1100人に対し、日本軍は1200人にすぎなかった。
アンガウル島には当時、日本人が2600人、島民は750人ほど住んでいたが、日本人と島民の老人と婦女子はパラオ本島に移され、健康な男子島民186人が、弾薬や食料などの運搬を手伝うため、軍夫として残っていた。
米軍の波状攻撃に守備部隊は上陸2日目に、半数を失う。最終的に日本軍は約50人が生還したが、約1150人が戦死。米軍も260人が戦死し、1354人が戦傷した。
米軍は9月24日以降、投降を呼びかけたが、日本軍将兵は応じず、鍾乳洞に避難していた島民約186人は投降した。日本軍や日本人が「島民を道連れにはできない」と投降を勧めたのだという。(編集委員 宮本雅史)