【皇室ウイークリー番外編】
産経ニュース戦没者慰霊に尽くされてきた両陛下、
沖縄、長崎、広島歴訪の「慰霊の旅」に込められたお気持ちとは。
対馬丸犠牲者を弔う「小桜の塔」で供花される天皇、皇后両陛下=6月27日、那覇市
戦後70年を来年に控えた今年、天皇、皇后両陛下は6月に沖縄、10月に長崎、12月には広島の各県で、戦没者や原爆犠牲者の碑に供花する「慰霊の旅」を行われた。戦後50年の平成7年にも3県と、東京大空襲の犠牲者を弔う東京都慰霊堂を巡る最初の慰霊の旅に出向き、戦後60年となった17年には激戦地の米自治領サイパン島を訪れ、初めて海外での慰霊を果たされた。来年4月にはパラオご訪問が検討される中、両陛下の慰霊への思いを改めて考える。
すべての原爆養護ホームをご訪問
「本当にご苦労の多い日々を過ごされたことと、深くお察ししています。来年は70年になりますが、どうぞ元気で来年を迎えられるよう願っています」
今年12月4日。天皇陛下は18年ぶりに訪問した広島市で、皇后陛下とともに原爆養護ホーム「矢野おりづる園」の入所者10人との懇談を終え、全員を前に、予定になかったお言葉で思いを語りかけられた。苦難を経た人々への深いお気持ちがこもっていた。
高齢で介護が必要となった被爆者が入る原爆養護ホームは広島市内に4カ所あり、両陛下は今回ですべて訪問されたことになる。
広島市の原爆養護ホーム「矢野おりづる園」を訪れ、腰をかがめて入所者一人ずつに言葉をかけられる天皇、皇后両陛下=12月4日
これに先立ち、平和記念公園にある広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に白菊の花束を手向け、深々と頭を下げられた。師走の冷たい雨が降っていたが、コートはあえて身に着けられなかった。「犠牲者に心を寄せるのにふさわしい姿」(側近)をお考えになったという。
冷たい雨のなか、コートを着ることなく原爆死没者慰霊碑に献花される天皇、皇后両陛下=12月4日、広島市中区の平和記念公園(森田達也撮影)
陛下は皇太子時代の昭和56年の記者会見で、広島と長崎の原爆の日である8月6日と9日に加え、沖縄戦終結の日の6月23日、終戦の日の8月15日を「記憶しなければならない4つの日」として挙げられた。側近によると、両陛下はこの日は外出中でも必ず黙祷(もくとう)をささげられるという。
戦後50年の慰霊の旅、60年のサイパン訪問は、まさにこのお気持ちを体現されたものだった。
真っ先に原爆落下中心地碑でご供花
今年10月に国体開会式臨席のため訪れた長崎県でも、深い哀悼のお気持ちが垣間見られた。10月11日に長崎県入りし、真っ先に長崎市の平和公園に向かわれた。原爆落下中心地碑に白菊を供えた後、陛下は高い碑をじっと見上げてから深く拝礼された。19年ぶりのご慰霊だった。
長崎空港(大村市)から平和公園は、国体開会式会場の諫早市を約25キロ通り過ぎる形だったが、宮内庁によると、両陛下が強く慰霊を希望されたことから日程が組まれた。さらに、長崎市の「恵の丘長崎原爆ホーム」も19年ぶりに訪ね、入所者10人と懇談された。
「あの時はどちらに」「お体の具合は」。両陛下は被爆時の状況を少しでも知ろうとするように一人一人に声をかけられた。被爆体験を演劇で伝えている人の話に何度もうなずき、陛下は「大事なことですね。世代が代わると昔のことが分からなくなってくるから」といたわられた。
「恵の丘長崎原爆ホーム」を訪問し、入所者と懇談される天皇、皇后両陛下=10月11日、長崎市
長崎の原爆落下中心地碑に供花される天皇、皇后両陛下=10月11日、長崎市の平和公園(村本聡撮影)
陛下は即位10年を迎えた11年の記者会見で、原爆についてこう語られている。
「戦争によって原子爆弾の被害を受けた国は日本だけであり、その強烈な破壊力と長く続く放射能の影響の恐ろしさを世界の人々にもしっかりと理解してもらうことが、世界の平和を目指す意味においても極めて重要なことと思います」
同年代の学童犠牲に心寄せ続け
陛下「よく耐えられましたね」
皇后陛下「奇跡のように生き残ってくださって」
今年6月27日。16年に開館した那覇市の「対馬丸記念館」を初めて訪ね、70年前の悲劇の生存者や遺族と対面された。直前には犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」に供花し、拝礼された。
学童疎開船「対馬丸」は昭和19年8月22日、沖縄から長崎へ向かう途中で米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された。犠牲者は学童約780人を含む約1500人。両陛下と同世代の学童も多く、「戦争を身近にお感じになった出来事の一つ」(側近)として以前から深く心を寄せられてきた。
その船体が53年ぶりに海底で確認されて間もない平成9年12月、陛下は誕生日の会見で「私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」と述べられた。さらに、「對馬丸見出ださる」と題し、「疎開児の命いだきて沈みたる 船深海(しんかい)に見出だされけり」との御製(お歌)を詠まれた。
皇后陛下も、戦後60年の17年の誕生日に際しての文書回答で「無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう」と犠牲になった学童をおもんばかられた。沈没から70年を迎えるからだけではないお心の深さが、記念館ご訪問には込められていた。
沖縄県入りした当日の26日、最初に足を運ばれたのが糸満市の平和祈念堂と国立沖縄戦没者墓苑だった。昭和54年の同墓苑建立以降、沖縄ご訪問時には必ず初日に立ち寄られているという。
戦没者に等しく心を寄せられる両陛下だが、沖縄へのお気持ちにはとりわけ強いものがあるとされる。
陛下は即位10年の会見で「多数の県民を巻き込んだ誠に悲惨な戦闘が繰り広げられました」とし、「私が沖縄の歴史と文化に関心を寄せているのも、復帰に当たって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有することが県民を迎える私どもの務めだと思ったからです」と率直に語られている。
土砂災害視察を優先のご配慮も
今年、3県を回られたのは偶然も重なった。長崎は毎年臨席される国体の開催が以前から決まっており、沖縄は対馬丸沈没70年が「以前からお気持ちの中におありだった」(側近)ことからご訪問が計画されていた。「沖縄、長崎と行けば、当然、広島をお考えになる」(側近)ため、宮内庁は広島ご訪問の時期を模索していたという。
こうした中で、8月に広島市で74人が犠牲になる大規模な土砂災害が発生。自然災害にも常に心を寄せられている両陛下は、慰霊とは別に、災害対応が一段落した段階でのお見舞いを強く希望された。
このため、今回は「まずは被災地のお見舞い」(側近)ということで、初日に土砂災害現場をご視察。従来は真っ先に行っていた原爆死没者慰霊碑へのご供花を、あえて2日目とする心配りをされたのだった。
陛下は18年の誕生日会見で、約310万人とされる戦没者の慰霊について「戦後に生まれた人々が年々多くなってくる今日、戦没者を追悼することは自分たちの生まれる前の世代の人々がいかなる世界、社会に生きてきたかを理解することになり、世界や日本の過去の歴史を顧みる一つの機会となることと思います」と意義を述べられている。
その心を身をもって示してこられた両陛下のお姿は、戦後70年を前に私たち国民が深く省みるべき方向を改めて示している。