朝日新聞は「解体、出直す」覚悟か、それとも“ヤラセ検証”か
慰安婦報道を第三者委に丸投げ…メディア責任放棄だ
【河村直哉の国論】
産経ウェスト慰安婦問題などを受けた朝日新聞の外部委員会が相次いでできている。自社の報道姿勢を見直そうとする姿勢に水をさすつもりはないが、違和感をぬぐえないでいる。
■国会招致にも従うのか? 自ら検証すべきだ
まず、慰安婦報道について検証する第三者委員会(外部委員7人)の初会合が10月9日に開かれた。9月に朝日新聞の木村伊量(ただかず)社長が謝罪した際、設置を表明していたものだ。そのときから感じていた違和感が、第三者委初会合での木村社長のあいさつを朝日紙面(10月10日)で読んでさらに強まった。
木村社長は初会合で、委員に検証してもらいたいのは次のような点だとしている。(1)慰安婦に関する過去の記事の作成や記事取り消しに至る経緯▽(2)8月に紙面化した自社の慰安婦問題検証に対する評価▽(3)国際社会に対する慰安婦報道の影響--など。
しかし(1)や(3)など、まず自らが報道機関として検証することがらではないのか。これらを第三者に委ねるということは、報道機関としての責任放棄に等しいのではないのか。
筆者とて、第三者の視点が不要だなどというつもりはない。むしろ報道が夜郎自大に陥らないために、第三者の視点は欠かせまい。しかしそれはあくまでも、検証を行い場合によっては軌道を修正するのは自分たち自身だ、という前提に立ったものでなければなるまい。そうでなければ報道の自立を損ねかねないのである。そもそも過去、慰安婦問題が紙面化されたいきさつなど、自社でなければ検証できない。
10月18日には、「信頼回復と再生のための委員会」(外部委員4人)の初会合も開かれている。いくつ委員会を作るのかという気がする。もし「第三者頼み」が安易なものになるのであれば、極論すれば朝日が嫌う国家権力の介入を拒む理由もなくなるだろう。すでに出ている国会招致などの声に、朝日はどう対応していくのか。
謝罪会見で社長が宣言「検証に自信…」、第三者委は「解体も…」
■「自社検証に自信」は何だったのか
木村社長は9月11日の謝罪会見で、8月に紙面化した自社の慰安婦報道の検証に関して「内容には自信を持っている」としていた。その席で第三者委による検証を行ってもらうことも明かした。
筆者が違和感を持ったのはまずこの点だ。8月の検証紙面は、筆者から見れば言い訳、開き直りに満ちたものだった。しかしそれでも「自信を持っている」というなら、それを貫けばよかったはずである。「自信」を口にしつつ第三者に検証してもらうという姿勢からは、言葉は悪いが世渡りの方便めいたものを感じた。
もちろんそんなことは杞憂(きゆう)なのだろう。第三者委が真摯(しんし)な検証をするのは無論のことだろうし、朝日もそれにこたえるのだろう。だが、たとえばだ。第三者委委員長の中込秀樹・元名古屋高裁長官は初会合のあいさつで、「場合によっては、新聞社自身が解体して出直せ、ということになるかもしれません」としている。仮にそのような結論になった場合、朝日は「はい、そうですか」と従うのか。
そういうものではなかろう。それは自らが決すべきことがらなのだ。自らが納得いく検証をし、自らが決めるしかないのである。
■取り消し記事の遅すぎる公表、そして非公表
第三者委の初会合を報じた朝刊で朝日は、8月の検証で取り消すとしていた記事の具体的な見出し、日付を明らかにした。慰安婦を強制連行したという虚偽を自作自演した故吉田清治氏に関する16本のうち、外部寄稿などを除く12本である。
これも、なぜこの日なのか。8月の検証で取り消すとしながら該当する記事がどれなのか示さないことに、各方面から批判が上がっていた。朝日記事によると16本の記事はすでに第三者委に提出していたという。第三者委と読者と、どちらが大切なのか。あるいは第三者委と日本、といいかえてもよい。
取り消すというなら、社会の誤解を一日でも早く解くべく、該当するのがどの記事なのか明らかにするべきだった。ここでも自ら決するのでなく、第三者委ありきになっている。結果としてそういわれても、仕方あるまい。
■戦後の「朝日的なもの」
うがった見方をすれば、慰安婦問題に関してはすでに結論ありきなのだとも思える。8月の検証のときから、朝日は慰安婦に広義の強制性があったという立場を変えていない。
「信頼回復と再生のための委員会」の初会合を報じる10月19日の紙面では、元慰安婦に償い金を支給したアジア女性基金の拠金呼びかけ文を外務省がホームページから削除したことに異を唱える社説を掲載している。
呼びかけ文には「10代の少女までも含む多くの女性を強制的に『慰安婦』として軍に従わせた」という、事実ではない記述が含まれていたのだから、削除するのは当然だろう。しかし朝日社説は、「国際社会からは日本政府が歴史認識をさらに後退させたと受け取られかねない」という。日本の非を鳴らすことに、なお、きゅうきゅうとしているのである。
この立場、すなわち、日本を断罪する立場を変えることは、実は戦後の朝日の立ち位置を否定することにつながってくる。当欄でも何度か書いているように、戦争への反動から、戦争にかかわる日本の過去一切を否定ないし罪悪視するのが戦後の左傾であり、「朝日的なもの」の正体といってよい。自らのアイデンティティーにかかわることなのだから、朝日がこのスタンスを簡単に変えてくるとは思えない。
第三者を交えた揚げ句に、結局は「朝日的なもの」の自己正当化で終わるのであれば、世間の批判はまた噴出することになるだろう。 (大阪正論室長)
=随時掲載します