雄渾で慈愛に溢れた家庭人 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

「昭和天皇実録」が語りかける事 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

産経ニュース


≪「昭和史の完成」への一歩≫

 8月6日付本欄での提言の結びに、「昭和天皇実録」の完成は、我々(われわれ)が保有すべき「昭和史」を大成せしめる重大な契機になると述べておいた。一般に入手できる形での公刊はまだ少し先のことになるが、既に宮内庁書陵部での閲覧は可能なので、民間研究者に向けての公開は実現してをり、昭和史の完成といふ国民的な大事業への寄与は緒についたことになる。

 稿本の複写を以(もつ)てしての全巻の分析作業に分担者として参加してゐる筆者は、現在までに昭和天皇87年の御生涯の40年分ほどを辛うじて繙読(はんどく)したにすぎないから、個々の史実の検証の結果は一先(ま)づ措(お)くとして、この史料集成の完成が示してゐる重要な意義を一般的な見地から綜括(そうかつ)してみることくらゐはできる。以下にそれを記す。

 昭和史の中でも、昭和3年から20年の夏に至る動乱の時代は、現代史の最大の焦点として、その研究は専門の歴史家に限らず、謂(い)はば万人に対して門戸が開かれてゐる。簡単に言へば、国民の誰しもが、その志さへあれば自由に研究に参加し、その成果を何らかの形で発表することができる。そしてその際の立場、拠(よ)つて立つべき史観の選択は、完全に各発言者の自由な裁量に委ねられてゐる。

どの様(やう)な見地から昭和史を理解し把握してもよく、又そこからどの様な結論・評価を導き出して公表することも自由なのであるが、然(しか)しどの研究者にとつても、史料の欠如故に、到底採り用ゐることが不可能な、しかもそれを欠いては所詮全体的な歴史像の把握はできない、といつた重要な見地が一つあつた。即(すなは)ち国家の統治権を総攬(らん)し給ふ元首としてのお立場から御覧(ごらん)になつた時、天皇は、過去の大戦争の序幕に当(あた)るアジアの動乱、連合国との対立、開戦の不可避性、戦争指導の至難、敗戦、占領の屈辱、平和の克復、戦禍による荒廃からの再生・復興といつた諸段階を、どの様に観じ、対処して来られたのか-。その答(こたへ)は一般庶民の眼を以てしては畢竟(ひつきやう)、忖度(そんたく)以上に出ることはできなかつた。

 ≪節目での真意の分析は漸進≫

 臣下の眼での忖度にしても、能(あた)ふ限りの資料を蒐(あつ)め、的確な想像力の駆使によつてかなりの程度にまで、「昭和天皇の昭和史」の実態に迫り得た歴史家がゐないわけではない。只(ただ)その場合、天皇御自身の真意については、所詮状況証拠の操作によつての判断に留るものであつて断定はできなかつた。

「実録」の公開が実現した現在とても、個々の重要な歴史の節目に於(お)ける天皇御自身の御意向の表明が記録されてあるわけではない。その点での新発見は殆(ほとん)ど無(な)いと言つてよいくらゐである。天皇と重臣・閣僚・統帥部高官、或(ある)いは外国使臣との謁見の記事に於いても、社交的な辞令の範囲を超えて政治の機微にふれる様な奏上・御下問の内容が記述されてゐる例は極めて稀(まれ)にしか見られない。

 それでも御拝謁の後に高官達の取る動きの記録を仔細(しさい)に読めば、奏上の内容と御下問・御軫念(しんねん)の関聯(かんれん)は或る程度推測することはできる。その点で従来の単なる状況証拠を通じての忖度よりは一目盛分析を深めることが可能であらう。

 それにしても、右に云ふ賜謁(しえつ)の人数の広範囲なると度数の多きには改めて驚きを新たにする。皇位に在るといふこと自体が大へんな激務である。天皇の過労を案じられた皇太后(貞明皇后)がご配慮を働かせられたり、侍従達が強ひておすすめして葉山や那須の御用邸での(さながら避難の如(ごと)き)御静養を図る例も頻繁に記録される。それでも又、その御用邸にまで国務を携へて大臣・高官達が〈参邸〉して御休養を妨げること頻(しき)りである。

≪雄渾で慈愛に溢れた家庭人≫

 一つ氣がつくのは、戦前の軍隊に於ける航空機・艦艇の事故は意外なほど多く生じてをり、天皇はその度毎(たびごと)に殉職・負傷した搭乗員達への救恤(きうじゆつ)のお手当てに深く配慮されてゐる記録がある。

 戦後は軍隊で生ずる事故への御宸憂(しんゆう)は格段に減じたわけだが、その代(かわ)りと言つてはをかしいが、外国使臣へ拝謁を賜(たま)ふ機会が飛躍的に増大した。大東亜戦争の目的達成としてのアジア諸国解放の衝撃波は全世界的規模に広がり、その結果主権回復以降の日本国の外交範囲も非常な拡大を遂げた。

 失礼ながら筆者などその名を全く知らず、世界地図を披(ひら)いて漸(やうや)くその存在に合点が行つた様な、アフリカや中南米の地にある人口数十万といふ程の小国でも我が国に特命全権大使といつた外交団を派遣してをり、晩年の昭和天皇は実に懇篤にそれら小国の使臣の応接に努められた様子である。

 もう一つ一般的な印象を言ふならば、昭和天皇は一族の謂はば氏(うじ)の上(かみ)としての責任感を濃密に抱いてをられた方であつた。戦前戦後を通じて、宮号を佩(お)びた皇族方はもちろん、臣籍に降下された元皇族、民間に降嫁(こうか)された内親王(ないしんのう)・女王方への、四季折々の節目でのお心遣ひの記録は甚だ美しい文字である。家庭人としての天皇は、雄渾(ゆうこん)にして慈愛に溢(あふ)れた家長であられたことが如実に窺(うかが)ひ見られる。
(こぼり けいいちろう)