九月十三日のこと、乃木希典殉死、拉致同胞救出集会 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
西村眞悟の時事通信より。



No.1011 平成26年 9月14日(日)

 


 九月十三日、靖国神社に参拝してから、午後二時から日比谷公会堂で行われる
北朝鮮に拉致された同胞を救出する為の
「もう我慢できない 今年こそ結果を!国民大集会」
に参加した。
 
 この日比谷での国民集会が午後五時過ぎに終わり、
 地元堺の方違神社のふとん太鼓の神事宮入に駆けつけたのが午後九時前で、それから境内で、数十人の若者がわっさわっさと三トンほどの太鼓を持ち上げて揺らすのを眺め、
おっさんになった小学校の同級生と会ったりしていたら日が変わってしまった。

 日比谷公会堂での国民集会が終わった直後、
演壇の上で東京都議会議員の古賀俊昭さんと握手し、
今日は、乃木希典閣下が明治天皇の後を追って自決した日だなあ、と言葉を交わした。
 
 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、
 明治天皇は崩御あそばされた。御歳六十一歳、満五十九歳。
 大正元年九月十三日夜、御大葬が執り行われた。
 午後八時、ご遺体をお乗せした御霊轜(ごれいじ)が皇居を出発する合図の号砲が打たれた。
 赤坂の自邸でその号砲を待っていた乃木希典は、
 古式に則り割腹し自決した。数え六十四歳、満六十二歳。
 妻静子も、乃木とともに、短刀で心臓を刺し自刃した。
 
 御大葬に先立つ九月十日、
 学習院院長乃木希典は、後に昭和天皇になられる皇太子に挨拶をし、山鹿素行の「中朝事実」を渡し、
「一層のご勉学あらせられんことを願い奉ります」と申し上げた。
 その乃木の様子から何かを感じられたのか、
 皇太子は、
「院長閣下は、何処かへ行かれるのですか」
 とたずねられた。
 乃木希典の辞世
「うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」

 今朝の産経新聞朝刊には、
「昭和天皇実録を読む 幼・少年期」が掲載されており、
「昭和天皇実録」には、
大正元年九月十三日の乃木希典と静子の自決を知った十一歳の皇太子(昭和天皇)が
「御落涙になる」
と、書かれていると記されていた。
 今朝、この「御落涙になる」を読んだとき、
 感、まさに、無量となる。

 先に、来日したインドのモディ首相が、
インパール作戦で、ネタジ・スバス・チャンドラボースとともにイギリスと戦った九十九歳の日本兵に膝を地につけて会ったと書いた。
 
 その方は、元日印協会専務理事・現顧問の三角佐一郎(みすみさいちろう)氏である。
 日印協会は、明治三十六年(一九〇三年)大隈重信や渋沢栄一らによって日本とインドの親善友好を計る目的で設立されて現在に至っている。
 この協会は、戦後の一時期、インド独立に協力したとの理由でGHQから活動を禁止された、という輝かしい経歴を持つ。
 
 昭和十六年八月二十八日、日印協会は、陸軍参謀本部の山内豊秋(土佐藩主の直系子孫)から、
「陸軍は南方のことは殆ど調査していないので是非協力して欲しい」と、ビルマ・インド方面の調査を依頼されている。
 外務省に、モディ首相の会った九十九歳の日本人のことを問い合わせると、
「名前は、三角佐一郎さんで、軍歴はなく、昭和十三年より日印協会に関係していて、陸軍参謀本部からの命令を受けて行軍可能な全てのルートを歩いて調べたとのことです」との返答をうけた。

 モディ首相が三角さんに会ったときの写真を見ると、
椅子に座る三角さんと同じ高さで、三角さんの手を両手で握ったモディ首相が三角さんの顔を見つめている。
 「東京でインド首相はネタジ・スバス・チャンドラボースの九十九歳の同僚を迎えようとひざまずいた。
 モディは三角について、今でも鮮明にネタジに関するあらゆることを詳細に覚えている日本人男性がいると語った。」
とインド外務省スポークスマンが伝えている。

 北進(対ソ戦)を想定していた陸軍は、南進(南方作戦)を想定していなかった。
 しかし、陸軍が南進を想定し始めるや、直ちに「インド・ビルマ」まで視野に入れた、すなわち「西亜作戦」またインパール作戦を想定したことは、注目に値する。
 この結果、シンガポールが陥落しインドは独立する。
 シンガポール陥落無くしてインドの独立はない。
 これらは、世界史的転換である。
 そして我が国が、この世界史的転換を為し遂げる前提に、
 三角佐一郎氏らの現地調査があったことを、我が国の戦後が無視していても、インドが覚えていて、
 この度、インド首相のモディ氏が我らに教えてくれた。

 前の時事通信で、数年前にビルマ(ミャンマー)中部のパガンで、西のアラカン山脈を眺め、インパールの勇士を思って目を閉じたとき、血の海に潜ったように瞼の裏が灼熱になったと書いた。
 この度、インド首相が、九十九歳の三角氏に跪いたことを知り、あれは、やはり、ビルマ戦線で没した十九万の英霊が一挙に目を閉じた私に押し寄せてきたのだと、あらためて思う。
 やはり、英霊は、私に、
 我らの戦いの意味を分かってくれ、
 我らの思いを祖国に持って帰れ、と伝えに押し寄せられたのだ。

 それで、昨日九月十三日、靖国神社に参った。

 拉致被害者救出、同胞の救出!
 何度も言うが、これは「外交交渉」ではない。
 すでに「戦争」である。
 
 今、朝鮮総連議長ら幹部一行が、祖国北朝鮮に帰っている。
 拉致被害者全員の帰国が為されるまで、
 彼らの再入国を許してはならない。
 北朝鮮が拉致した日本人を北朝鮮当局は、
 明日にでも全員日本に帰すことができるはずだ。
 人質を取った強盗が人質をすぐに釈放できるのと同じである。
 
 それを、すでに数ヶ月、北朝鮮は約束を違えて放置している。
 よって、日本人の帰国無くして朝鮮人の再入国はない。

 それを、何だ!
昨日の国民大集会に出席した総理大臣始、
直前拉致担当大臣、交替ホヤホヤの現拉致担当大臣、
誰もこの朝鮮総連幹部の再入国について触れなかったなあ!
 そこまで根性がないのか!