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戦死の父遺骨
70年後に抱いた息子 手紙をたよりに熊本の墓所にたどりつく

産経ウェスト



戦死した父の遺骨を見つけ、涙を流す長谷光城さん=6月15日、熊本県宇城市小川町(長谷さん提供)

 第二次大戦中、台湾で戦死した日本兵の遺骨を、当時は赤子だった長男が70年ぶりに見つけ出した。台湾で日本軍から分骨を受けたという友人が、父の死の1カ月後に送ってきた手紙を手がかりに、友人と父が眠る熊本の納骨壇にたどり着いた。記憶がないまま死別した父を抱き、涙が止まらなかった長男。父の遺骨は10月の命日に合わせて、亡き母が眠る地元・福井の墓所に帰る。(高久清史)

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 6月15日、福井県職員で大阪事務所に赴任している長谷光展(ながたに・みつのぶ)さん(45)の携帯電話が振動した。父の光城(みつしろ)さん(70)からで、声は震えていた。

 「骨が見つかった…」。しばらくして電話に写真が届いた。光城さんが涙を流し「故長谷准尉霊」と書かれた木箱を抱えていた。

 29歳で戦死した光展さんの祖父、諒卓(りょうたく)さんの遺骨。光展さんが父の涙を見たのは、13年前に祖母、扶次子(ふじこ)さんが84歳で亡くなったとき以来だった。

 諒卓さんと扶次子さんは福井県の鳥羽村(現若狭町)生まれ。陸軍の飛行士だった諒卓さんは昭和19年7月、満州に扶次子さんと赤子の光城さんを残し、台湾へ転属した。

 10月12日、諒卓さんの戦闘機は台湾上空で米軍に撃墜された。パラシュートで脱出せず、戦闘機を旋回させて集落を避けるようにして畑に突っ込んだ。胸ポケットには光城さんの写真が収まっていた。

 鳥羽村に戻っていた扶次子さんのもとに届いた遺骨は土葬され、土に還った。扶次子さんは女手一つで光城さんを育てるため、農業を一から始めた。光城さんは家に残された父からの手紙を読み、心の中で父の存在を膨らませた。

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 今年2月。光城さんは扶次子さんの遺品を改めて整理していて、1通の封書に目をとめた。

 《長谷准尉殿と水魚の友否兄弟として御交誼を重ねて居たので御座います》。戦死の約1カ月後、台湾にいた奥村光次さんから届いていた手紙。奥村さんは現地で諒卓さんと出会い、親交を深めたという。

《長谷様は「自分が戦死したら骨を奥村の所に持ってゆけ」と部下の人に話し、早速分骨していただき、おまつりしています》

 昔の話で遺骨の場所は分からなくなっているだろうが、父が世話になった人の墓参りに行きたいと思った。手がかりは封書にある台湾の住所だけ。それでも光展さんが台北駐大阪経済文化弁事処の職員に相談すると、奥村さんが熊本県に引き揚げていたことが分かった。

 偶然は重なる。現代美術作家の光城さんは活動の一環で熊本をたびたび訪れており、地元の寺関係者にも知り合いがいた。協力を得て熊本県宇城(うき)市小川町にいる奥村さんの親戚と巡り合い、墓所を突き止めた。

 親戚に案内された納骨壇の真ん中の段に奥村さん夫妻の位牌(いはい)と遺骨があり、光城さんは合掌した。ふと視線を落とすと、下の段に白い布に包まれた木箱があった。父の遺骨だった。

 両手で抱え、父を感じた。度肝を抜かれ、震えが止まらなかった。

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「非常に立派な人。一緒に浴びるほど酒を飲んだ」。奥村さんの孫たちは祖父の言葉を覚えていた。長谷家とは音信不通だと説明し、「家族だと思って遺骨を大事にする」と話していたという。孫の男性(63)は「祖父も今回のことを喜んでいるのではないか」と思いをはせた。

 若狭町の長谷家には諒卓さんが光城さんに残した遺書があり、達筆な字でこう書かれている。

 《母上は世界中で一番よいお母さんだ。孝養を忘れるな》。遺骨は10月5日に受け取り、命日の12日に扶次子さんが眠る墓に納める。「親孝行ができそうだ」。光城さんは心待ちにしている。

長谷諒卓さん、扶次子さんが一緒に写った写真。扶次子さんはアルバムに入れ、大切に保管していた