皆さん、これが最後です。さようなら。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

8月20日は真岡郵便電信局事件が起こった日

ねず様のブログ・ねずさんのひとりごとより。

昭和20(1945)年8月20日、真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)が起こりました。
すでに終戦の詔勅も発せられ、日本が戦闘を終結させていたあとの出来事です。

8月16日の朝のことです。
樺太の真岡市にあった真岡郵便局で、朝礼が行われました。

その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しました。

政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ています。
でも、その疎開を効果的に実現するためには、電話交換業務を継続しなければなりません。
そこで、残って交換業務を続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員、一度家族と相談したうえで、返事を聞かせてください。


かずえさんのこの言葉に、その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、「私は残ります」、「私も残ります」、「私も残らせて下さい」とこたえたそうです。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。

こうして最終的に、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。

翌朝7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの布告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を行います。
そしてソ連軍の上陸用艇が、真岡に上陸する。

局員たちは、急いで郵便局に向かいました。
ところがその頃には、すでにソ連兵が市内に上陸しています。
彼らは動くものを見れば、片端から銃撃する。
武器を持たない丸腰の日本の民間人でも、容赦はありません。
見つけ次第殺し、屋内に侵入しては強姦や略奪を始めていたのです。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されています。

艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員が、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しています。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子は、後に次のように証言しています。
「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした。」
まさに、猛攻がおこなわれていたのです

さらに真岡郵便局では、平屋建ての本館と、奥の2階建ての別館があったけれど、本館は艦砲射撃で破壊され、そこにいた全員が死亡してしまいます。
こうして、指揮系統を失った電話交換手の女子11名だけが取り残されたのです。

彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しました。
けれど、はじめのうちは遠くにあったソ連兵の銃撃の音が、どんどん間近に迫ります。
さらに表側にあった郵便局本館が吹き飛ばされる。
もはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
それが、
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」というものです。

11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿があった。

彼女たちのご冥福を祈り、昭和天皇と香淳皇后は、御製を残されました。

【昭和天皇 御製】
 樺太に命を捨てし たおやめの
  心思えば 胸せまりくる

【香淳皇后陛下 御歌】
 樺太につゆと消えたる おとめらの 
 みたまやすかれと ただいのりぬる

真岡郵便局でお亡くなりになった九名の乙女たちです。
 高石ミキ   24歳  
 可香谷シゲ 23歳
 伊藤千枝  22歳 
 志賀晴代  22歳
 吉田八重子 21歳
 高城淑子  19歳 
 沢田きみ  18歳 
 渡辺 照   17歳   
 松崎みどり 17歳  

真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土ででお亡くなりになった皆様のご冥福をお祈りします。