「名前を残さなあかん 負けてたまるか」戦後を生き抜いた
「軍人湯」の“看板娘”
産経ウェスト「軍人湯」の番台に座る高田千代さん=京都市伏見区
京都市伏見区深草に「軍人湯」という大正時代に創業した銭湯がある。日本陸軍第十六師団司令部に近かったことからこの名が付いたとされ、第二次大戦中、多くの軍人たちも通った。番台から彼らの姿を見守った“看板娘”は終戦直前、夫をフィリピンのジャングルで亡くした。夫と暮らしたわずか3年の月日を胸に、「負けてたまるか」と自らを奮い立たせて戦後を生き抜いてきた。
72歳まで番台に座り、「軍人湯」を守り続けてきたのは、京都市伏見区の高田千代さん(92)。一人娘で、京都市役所で働いていた正三さんと結婚したのは、昭和15年のことだった。
すぐに2人の男の子に恵まれ、つつましいながらも幸せな結婚生活を送った。夫と2人で出掛けた比叡山で道に迷い、暗くなったなかを必死になって下山したことなど、新婚時代の思い出は今もしっかりと記憶に残っている。しかし、18年5月、正三さんは出征。翌年、広島で子供と一緒に会ったのが、最後となった。
終戦後、届いた手紙に記されていた夫の命日は昭和20年8月2日。32歳の若さで命を落としたのは、終戦のわずか2週間前だった。
「今頃、夫もどこかの銭湯で汗を流しているんやろか」と、銭湯を訪れた客の軍人に夫の姿を重ね、帰りを待ち続けていた千代さんは「なぜもっと早く終戦の決断ができなかったのか」と涙を流した。
終戦時はまだ23歳。幼子を抱えた若い女性が生き抜くには厳しい時代だったが、「なにくそ。世間に負けてたまるか」と、看板娘として銭湯を支えた。
戦後しばらくの間は復員兵の利用者も多く、やせこけた姿の彼らに、「生きて帰って来られて、よかったね」と、ねぎらいの言葉をかけた。
夫が最期を迎えたとされるフィリピンのジャングルを慰霊団の1人として訪れたのは、昭和40年代半ばだった。足を踏み入れることすらできないジャングルを飛行機から眺め、「よくもあんなところで」と言いようのない感情が湧いた。
終戦から69年が過ぎたが、「あんたも元気にな」と語らい続けてきた遺族仲間も、千代さんを含め2人になった。「最近は外に出るのもおっくう。今は自分のことだけで精一杯やな」とつぶやいた。
「この名前は残さなあかん」と利用客が望んだ「軍人湯」の経営は、今は長男の博次さん(73)が引き継いでいる。博次さんは「頼りにしてくれるお客さんのある限り、やめられない」と話す。
フィリピンで戦死した高田千代さんの夫、正三さん