「外貨を稼ぐ」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 


戦後初の国産旅客機「YS-11」。生産は、三菱重工業や川崎重工業、富士重工業など日本を代表するメーカーが分担して行った(三菱重工業提供)


【再び空へ-零戦からMRJ(中)】
敗戦で叩きつぶされ…空白の7年経て「YS-11」に継承されたノウハウ




「零式艦上戦闘機(零戦)」の製造などで世界をリードした日本の航空産業は、昭和20年の敗戦後、戦勝国によって完膚なきまでにたたきつぶされた。終戦から約3カ月後の11月18日、GHQ(連合国軍総司令部)は、航空機の生産、研究、実験など全ての活動を禁じる覚書を発表。模型飛行機さえ造らせない徹底ぶりで、財閥解体も相まって、日本の航空産業は“空白の時代”に突入する。

 「航空機製造は、図面だけでは決してできない。先輩たちが、どういう道具を使い、加工をしてきたかといった技術伝承が欠かせない。空白を取り戻すのは大変だった」

 33年の入社以降、機体塗装に40年携わり、現在は三菱重工業の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に勤務する伊藤敏彦氏(72)は当時を語る。

 一方、米英などの戦勝国は、ナチス・ドイツが開発を進めてきたジェットエンジンを徹底的に研究するなどしてその実用化を急速に推し進めた。1950年代後半になると、米ボーイング707やダグラスDC-8に代表されるジェット旅客機の時代を迎える。

 日本の航空産業が再浮上のきっかけをつかんだのは、敗戦から7年後の昭和27年。サンフランシスコ講和条約が発効し、航空機の製造禁止が一部解除された。

 そして、朝鮮戦争時の米軍機のオーバーホールなどで少しずつ技術を磨いていく。ただ、「空白の7年間」に生じた世界との差は、すでに埋めがたいレベルに達していた。

「近代航空機の礎に」

 転機となったのが、34年だ。国産旅客機の製造に向け、半官半民の日本航空機製造(日航製)が設立され、戦後初のプロペラ旅客機「YS-11」の開発が本格化。37年にはついに念願の初飛行を果たす。

 YS-11のチーフエンジニアは東条英機元首相の次男で、三菱重工出身の東条輝雄氏。開発陣として、零戦の設計を担当した堀越(ほりこし)二郎氏ら「5人の侍」と呼ばれる航空技術の精鋭たちがサポートした。

 だが、戦後の空白期間がもたらした影響は大きかった。搭乗したパイロットからは「氷の上を滑るような感じ」「舵(かじ)の効きがグサグサ」などといった悪評が続出。日航製元エンジニアの山之内憲夫氏(74)は「技術屋がパイロットの言葉を理解できないことが大問題だった」と振り返る。山之内氏はパイロットと技術者の溝を埋めようと、自らテストパイロットの資格を取得した。

 そんな中、「小舵(こかじ)の効きが悪い」といわれた補助翼の問題を独自の空力センスで解決したのは、第二次世界大戦中に海軍航空技術廠(しょう)で数々の戦闘機の開発に携わり、当時東大教授だった山名正夫氏だ。山之内氏は「戦前の第一線の活躍者がいたことで、彼らの経験を受け継げたことは大きかった」と語る。

 東条氏も横滑りの問題を解決するために主翼の上反角を2度上げる決断をするなど、世代を超えた技術者たちが知恵を結集した。

 伊藤氏も「(海外企業の)ライセンス生産で得たノウハウを生かして仕事を進めた。近代航空機の礎になるような仕事だった」と語る。

 ビジネス視点足りず

 YS-11には「外貨を稼ぐ」という戦後日本のミッションも課されていた。

 「販売のノウハウがなかったため、一からの出発に意気軒高となった」。当時、日航製で海外販売の営業を担い、後に島津製作所社長も務めた矢嶋英敏氏(79)は打ち明ける。

 「1機100万ドルと、競合機より2、3割高かったが、『安全安心』にこだわった機体で、手応えはあった」。単身アフリカまで乗り込んだ矢嶋氏や、商社マンが世界各地で営業、海外の航空会社にも売り込んだ。

 YS-11は182機が製造され、75機が輸出されるという画期的な成果を残し、敗戦国・日本の航空技術の復活を印象づけることになる。

 ただ、初飛行から約10年後の昭和48年、生産中止になる。累積赤字は360億円に上っていたからだ。当時を知るメーカー幹部は「半官半民ということで、ビジネスという視点が足りなかった。航空会社へのサービス体制なども不十分だった」と指摘する。

 その教訓は国産初のジェット旅客機「MRJ」に受け継がれることになる。