国立療養所東北新生園の霊安堂で花束を供えられる天皇、皇后両陛下=22日午後、宮城県登米市
(22日・火/宮内庁発表分)
【午前】
両陛下 東京から東北新幹線で宮城県へご移動
【午後】
両陛下 宮城県知事、県議会議長、県警察本部長からあいさつ、少時ご歓談《栗原市長、市議会議長同席》(宮城県栗原市・エポカ21)
両陛下 ハンセン病療養所「国立療養所東北新生園」ご訪問、ご供花(登米市)
両陛下 登米市長とご懇談(登米市役所)
両陛下 県知事から復興状況などご聴取(南三陸町・南三陸ホテル観洋)
陛下 ご執務(同)
国立ハンセン病療養所の東北新生園(宮城県登米市)を22日訪ねた天皇、皇后両陛下は入所者代表14人と懇談された。強制隔離政策による病気への誤った認識から差別と偏見に苦しんだ入所者を、長年気にかけてこられた両陛下。皇太子同妃時代から46年かけ、全14カ所(国立13、私立1)の療養所の入所者と面会を果たされた節目となった。
「入所のころはいろいろ状況が厳しかったんじゃないですか」。陛下は、昭和14年の同園開設から75年にわたって暮らす、車いすの男性に語りかけられた。同園入所者87人の平均年齢は84歳になる。女性入所者には手を握って「お体のほうは?」と気遣われた。皇后陛下も、目が不自由な女性の手を握って「美智子でございますよ。元気でいらしてくだすってね。ありがとう」と声をかけられた。女性は「長生きしたかいがありました」と涙した。
両陛下は昭和43年、奄美和光園(鹿児島県)を訪問以来、全国の療養所を回られた。皇室全体でも長らく支援に力を注がれてきた。
両陛下はこの日、新生園には「高松宮杯」と「寛仁(ともひと)親王妃杯」のゲートボール大会があり、震災直後に寛仁親王殿下が訪問され、次女の瑶子女王殿下も来られていると説明を受けられた。かつては大正天皇の皇后、貞明皇后が「癩(らい)予防協会」の資金を下賜。高松宮が後継団体の総裁となり、高松宮妃は正しい理解を広めようと、高松宮記念ハンセン病資料館(現国立ハンセン病資料館)建設に尽力した。
ただ、国が明治40年に始めた隔離政策は、感染力が極めて低いと分かったのちも平成8年まで続いた。厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が17年にまとめた報告書では「患者は皇室の権威を借りて排除された事実も指摘しなければならない」とも記された。側近は「孤独を強いられた人がいる事実を両陛下は重く受け止められている」と話す。
両陛下は懇談前、園内の霊安堂に白菊を供花された。亡くなった入所者は815人。引き取る遺族もいるが、今も432柱が眠る。堂の前で出迎えた入所者自治会長、久保瑛二さん(81)は両陛下のお背中に「亡くなった人の霊が慰められた」と感じたという。「全部訪ねてくださったことに感激があります」と報道陣に語った。
国立ハンセン病療養所「東北新生園」の入所者と懇談される天皇陛下=22日午後2時14分、宮城県登米市(代表撮影)
国立ハンセン病療養所「東北新生園」の入所者と言葉を交わされる皇后陛下=22日午後、宮城県登米市(代表撮影)
「南三陸さんさん商店街」を訪問、視察される天皇、皇后両陛下=23日午前、宮城県南三陸町(代表撮影)
東日本大震災からの復興状況視察などのため宮城県を訪問中の天皇、皇后両陛下は23日午前、南三陸町で津波で店舗などを失った商店主らが開いている仮設商店街「南三陸さんさん商店街」を訪ね、本格復興を目指す人々の話を聞かれた。
コンテナ状の店舗で現在32店が営業している。両陛下は、三陸産の魚も使って製造する「及善蒲鉾(かまぼこ)店」で、5代目の及川善祐(ぜんゆう)さん(61)から話を聞かれた。流された工場を内陸の登米市に再建したが将来は町内での復興を目指しており、両陛下はこうした思いなどに耳を傾けられた。写真館「佐良スタジオ」の前では、佐藤信一さん(48)が撮影し続ける町内の写真をご覧に。津波前の美しい景色や震災後の人々の表情もあり、両陛下は説明を受けながら見られた。
午後には気仙沼市に移って、ジオパーク「岩井崎」を視察される。