憂国の情 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
連載:ニッポンの防衛産業
ZAKZAK 夕刊フジ

憂国の情で国産ジェットエンジンに取り組んだ土光敏夫氏


終戦間際、米軍に接収され、あるいは破壊され、抹殺されたとされる国産ジェットエンジン。


 『橘花(きっか)』での試験飛行成功で、その存在が目立っていた「ネ20」は、逃れようがなかったが、まだ世に出ていなかった「ネ130」は信州の山の中でひたすら日本の独立を待ち、再びわが国の原動力となることを待っていた…。そんなドラマがあったのかどうかはもはや誰にも分からないが、とにかく当時、深く関わった土光敏夫氏がジェットエンジン事業に強い思い入れを持っていたことは確かだ。

 戦後、7年の航空禁止令が解け、すっかり途切れたかのように見えたジェットエンジン製造に乗り出すことを決めたのが、後に「めざしの土光さん」と呼ばれた同氏だと聞いて、意外に思われた向きもあるかもしれない。土光氏といえば、合理化や質素倹約というイメージがあるが、戦後、ジェットエンジン事業に乗り出した際のキャラクターは全く違う印象だ。

 「少なく見積もっても、向こう10年は赤字になるだろう」

 名だたる各社がそう見通し、次々に断念した。また、欧米ではるかに進んでいる技術であり、はなから負けている日本の一企業が、損失覚悟で乗り出すことを嘲笑する者も少なくなかった。そうした中でも、同氏の信念は決して揺るがなかったのである。

 そんな劣勢のケンカに、あの土光さんが打って出たのはなぜか。それは、その人後に落ちない憂国の情によるものと言って過言ではないだろう。

「ジェットエンジンの開発・製造を始めなければ、日本の戦後は始まらない!」

 その思いは、多くの技術者たちにもあった。しかし、それを誰が無理を通してでも実行するのかが大きな問題だった。かつては太っ腹な決断ができる企業人がいて、またそれが許容される世の中でもあったのだ。

 土光氏は、そうと決めると、次々に国産ジェットエンジン製造につながる施策を行った。

 まず昭和30年代に自衛隊が導入した戦闘機F86のエンジンJ47のライセンス契約を製造元のGE社と締結。そして、間もなく、終戦直前のごく短い期間にジェットエンジンを作り上げ、「日本のエンジンの父」と言われていた海軍航空技術廠(空技廠)の種子島時休(たねがしま・ときやす)氏と、その部下だった永野治氏などを次々に招聘(しょうへい)した。石川島重工業(現IHI)を日本のエンジン技術の総本山としてのブランドにすべく、足場をしっかりと固めていったのである。

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■桜林美佐(さくらばやし・みさ)
 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)、「武器輸出だけでは防衛産業は守れない」(並木書房)など。