「謎」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(65)
レイテ湾突入「謎」の断念



歩いてフィリピンに上陸する米軍のマッカーサー大将(前列左端)。2年半前脱出したときの「アイ・シャル・リターン(私は帰ってくる)」の「公約」を果たした=1944年10月(共同)


ッカーサーの帰還止められず

 昨年11月、台風30号がフィリピン中部を襲った。特にレイテ島は中心都市タクロバンが高潮によりほぼ水没するなど、大被害に見舞われた。同島中心に死者は7千人を超えたという。少し年配の日本人はこのニュースを特別な感慨をもって聞いたに違いない。

 レイテ島は大東亜戦争末期、その沖で「わが連合艦隊が戦った最後の、しかも決定的の海戦」(伊藤正徳『連合艦隊の最後』)があり、日本の守備隊が壮絶な玉砕を遂げた島だったからだ。

 昭和19(1944)年夏、マリアナ沖海戦で日本が敗れ米国にサイパン島を奪われた後、日米双方とも、次の「決戦場」はフィリピンと見るようになった。

 日本海軍はスマトラ島沖のリンガ泊地で猛訓練を行った。フィリピンでもう一度決戦を挑み、巻き返すべく、艦船、航空機の不足を訓練で補おうというのだった。

 一方米側では2年半前、日本軍によってフィリピンを追い落とされたダグラス・マッカーサー大将がこの地を取り返そうと、復讐(ふくしゅう)の念に燃えていた。

 10月17日、やはり台風が荒れ狂う中、マッカーサー軍は突然、フィリピン沖にその姿を現す。翌18日にはレイテ湾に突入、20日、タクロバンなど2カ所から同島に上陸を開始した。マッカーサーは艦上からフィリピンゲリラ部隊の電波を使い、芝居がかった演説でフィリピン国民に呼び掛けた。

「私はマッカーサー大将である。フィリピン市民諸君、私は帰ってきた」

 レイテ島守備に当たる陸軍第十六師団は抵抗したが、水際死守作戦はとらなかったため、約6万の米軍は比較的短時間で上陸を終え、タクロバンの飛行場などを占領した。

 このため日本軍はフィリピンでの決戦場をルソン島からレイテ島に変える。守備隊に徹底抗戦を命じる一方、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」などの第二艦隊、いわゆる栗田艦隊をレイテ湾に突入させようとした。

 栗田艦隊主力は22日朝、ボルネオ島ブルネイ湾を出港、北東のフィリピン・シブヤン海を目指した。ルソン島南のこの海を西から東へ横切り、いったん太平洋に出た後、レイテ湾に「殴り込み」をかける作戦だった。

 だが翌23日には早くもパラワン島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け旗艦「愛宕」を失う。24日にはシブヤン海で虎の子の「武蔵」が300機に上る米軍機の集中攻撃を受け撃沈する。このためいったん太平洋との間のサンベルナルディノ海峡通過を断念したが、再度進撃に移り、夜には同海峡を抜けるのに成功する。

 この間、小沢治三郎中将率いる空母「瑞鶴」「瑞鳳」など第一機動艦隊が、自ら壊滅覚悟の「おとり」となり、米ハルゼー大将の機動部隊をはるか北の海上におびき出すことに成功した。海峡はがら空き同然になっていたのだ。

25日朝、サマール島沖で米空母部隊に「大和」などが砲撃を浴びせた後、いよいよレイテ湾突入と思わせたところで、栗田艦隊は突然北へ反転しレイテ島に背を向けてしまった。その後、小沢艦隊とともに満身創痍(そうい)になりながら、ブルネイ湾に引き揚げる。

 この栗田艦隊の「反転」については栗田中将が戦後、ほとんど口を開かなかったこともあり、さまざまな臆測がなされた。

 南のミンダナオ海からスリガオ海峡を通り、栗田艦隊と合流してレイテ湾殴り込みを予定していた西村祥治中将の西村部隊が海峡で待ち伏せに遭い壊滅した。このため突入しても戦力不足だと判断したとの見方があった。また湾内に残る米艦はほとんど兵士を運ぶ輸送部隊で、それよりも湾外の戦闘部隊を潰す方が得策と考えた-などと言われている。

 だが突入して上陸した米軍を孤立させれば、マッカーサーのフィリピン全土奪還が遅れたことは間違いない。日本本土攻撃にも時間がかかり、連合艦隊が反撃態勢を整える機会もできたかもしれない。その意味で「痛恨の反転」と見る史家も多い。(皿木喜久)

【用語解説】レイテ地上戦

 米軍のレイテ島上陸に対し、日本陸軍は「レイテ決戦」を打ち出し、第十六師団に加え第一、第二十六師団、独立混成第六十八旅団などを投入した。しかし栗田艦隊がレイテ湾突入を回避、米軍がフィリピンの主島ルソン島に上陸するや、レイテ決戦を断念、第十四方面軍(山下奉文軍司令官)は、各師団、旅団を束ねる第三十五軍に「自活自戦」を命じる。

 もはや撤収のための艦船もほとんどなく、見捨てられた形だった。それでも各師団は島西方の山岳部などにこもり、米軍と戦い続けたがほぼ玉砕に近い形で終戦を迎えた。