「サエノカミ」「サイノカミ」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【現代に生きる神話 祭られる神々】第4部<イザナキ、イザナミの別れ>(中)
杖から出現 多様な顔



利根川の支流沿いに建つ大鳥居、その奥に息栖神社がある=茨城県神栖市

 悠々と流れる利根川の支流に向かって、石造りの鳥居が建つ。鳥居の先にある息栖(いきす)神社(茨城県神栖(かみす)市)のご祭神はクナトノカミ。日本書紀に「是(こ)を岐神(ふなとのかみ)と謂(まを)す。此(こ)の本(もと)の号(な)は来名戸之祖神(くなとのさへのかみ)と曰(まを)す」と記される神である。

 フナトノカミは、イザナキノミコトが黄泉(よみ)の国から逃げ帰る際に登場する。古事記では、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)の名で、身の穢(けが)れを払おうとしてイザナキが投げ捨てた御杖(みつえ)から出現したと記されているが、日本書紀ではさらなる重要な役目を果たしている。

 黄泉の国の出口、泉津平坂(よもつひらさか)にたどり着いたイザナキは巨石で坂をふさぎ、追ってきたイザナミノミコトに別れの言葉を言い渡す。

 「此(これ)よりな過ぎそ(ここより先には出るな)」

 そして、投げた杖がフナトノカミになる。

 「フナトノカミはイザナキの身を守った神。悪いもの、外敵を寄せ付けない神ということです」と同神社の荒井昭男宮司は話す。神徳として厄除けが挙げられるのはこのためだ。

                   

 日本書紀では、フナトノカミは、国譲り神話でも活躍する。

 〈是に大己貴神(おほあなむちのかみ)報(こた)へて曰(まを)さく(中略)乃(すなわ)ち岐神を二神に薦めて曰さく、「是我に代りて従へ奉るべし。吾は此より避去(さ)りなむ」とまをす〉

 国譲りを迫る高天原(たかまがはら)の使者、タケミカヅチノカミとフツヌシノカミに対し、オオアナムチ(オオクニヌシノミコト)は承諾し、フナトノカミを自分の名代に推挙して姿を隠す。この後、フナトノカミはタケミカヅチらの先導役となり、国内の平定を助けた、と日本書紀は記す。

 この神話を裏付けるように、息栖神社のほど近く、北にはタケミカヅチを祭る鹿島神宮(同県鹿嶋市)があり、西にはフツヌシを祭る香取神宮(千葉県香取市)がある。息栖神社の由緒によれば、国内平定を終えた2柱の神がこの地に鎮座すると、フナトノカミもとどまったとされる。

 「タケミカヅチとフツヌシはそれぞれ、高台に祭られているが、フナトノカミは海辺に祭られた。古代から社殿の前は船が行き交う航路。フナトノカミは道の神として、海上の安全を見つめ続けてきた」と荒井宮司は話す。同神社が現在も6月の「大祓(おおはらえ)」の際、船の穢れを払う祭祀(さいし)も行うのはこの歴史があるからだ。

 同神社の社殿は昭和35年に焼失する前、出雲で見られる大社造りを模したものだったという。フナトノカミがオオクニヌシに近い、出雲の神だったことを示すものだ。

 「この地では古くから、豊富な砂鉄を用いた製鉄が行われていた。出雲の神が祭られているのは、製鉄の技術を出雲の人々が伝えたことを示しているのではないでしょうか」

                   

 フナトノカミを道祖神とする信仰もある。道祖神は普通、集落のはずれや道の辻(つじ)に立つ石神で、イザナキがイザナミを追い返した神話が、災いを集落に入れないことにつながるという心情が生んだものだ。実際、道祖神をフナトノカミの本名、クナトノサエノカミを想起させる「サエノカミ」「サイノカミ」と呼ぶ地域も多い。

「道祖神信仰は多様で、災い除けだけではなく五穀豊穣(ほうじょう)や子孫繁栄も願い、ただの丸石や、石に彫られた男女の姿などを対象にした。フナトノカミもその一つ。複層的な源流を持つ信仰の中に存在しているのです」

 国学院大の倉石忠彦名誉教授はそう語る。八百万(やおよろず)といわれる日本の神々の中でも、フナトノカミほど多様な顔を持つ神は珍しい。

                   

【用語解説】岐神

 黄泉の国の穢れを落とす禊(みそ)ぎをしようと、イザナキが投げ捨てたものから化生した12柱の神の一つ。最初に投げ捨てた杖から生まれたため、イザナキの長男とされることもある。

 古事記では、イザナキは黄泉比良坂(よもつひらさか)での別れの際、「あなたの国の人を毎日千人殺す」と呪うイザナミに対して、「ならば私は毎日1500の産屋を建てる」と反論する。イザナキが、水中での禊ぎの最後に生み成したのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、ツクヨミノミコト、須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子。フナトノカミは出雲井社(島根県出雲市)などにも祭られている。