梅雨の晴れ間が広がり、巨木がうっそうと生い茂る豊島岡墓地(東京都文京区)に、哀愁を帯びた雅楽の調べが奏でられた。17日、しめやかに営まれた桂宮さまの本葬に当たる「斂(れん)葬(そう)の儀」。ご両親の三笠宮ご夫妻をはじめとする皇族方が深い悲しみの面持ちで別れを告げられ、親交があった多くの人も明るく飾らないお人柄をしのび、早すぎる薨(こう)去(きょ)を哀惜した。
桂宮さまのご遺体を納めたひつぎを乗せた霊車は午前9時、赤坂御用地(東京都港区)の赤坂東邸を出発、桂宮邸(千代田区三番町)や皇居周辺などゆかりの地をめぐった。宮邸前では、近くの住民や宮内庁関係者ら約50人が静かに頭を下げて見送った。
同墓地に到着した霊車は、日・豪・ニュージーランド協会総裁を務めた桂宮さまが友好に尽力されたオーストラリアの元外交官ら6人に寄り添われ、葬場内を進んだ。午前10時から始まった「葬(そう)場(じょう)の儀」。喪主の三笠宮さまと三笠宮妃百合子さまは車いすで参列、霊車が姿を見せるとゆっくりと立ち上がられた。祭壇の前に進んだ際もしっかりと立ち、静かに拝礼された。
続いて、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻をはじめ皇族方がご拝礼。喪主代理で桂宮さまのめいに当たる三笠宮家の彬(あき)子(こ)さまは、頭を下げて目を潤ませ、ハンカチで涙をぬぐわれた。約560人が参列し、高円宮妃久子さまの次女、典子さまとの婚約が内定した出雲大社禰(ね)宜(ぎ)の千(せん)家(げ)国(くに)麿(まろ)さん(40)の姿もあった。
一般拝礼には約870人が訪れた。病に倒れた後もリハビリをへて公務を果たされた桂宮さま。総裁を務められた日本漆工協会の理事長として交流があった和田省司さん(78)は「入院中も『病院にずっといたくはない。家に早く戻りたい。仕事をしたい』とおっしゃっていたと耳にした」と明かす。同墓地前で手を合わせ、「お元気ならもっと公務をされていたでしょう」と悼んだ。
午後には、落合火葬場(新宿区)で火葬された桂宮さまのご遺骨は再び同墓地へ戻り、納骨、埋葬する「墓所の儀」が執り行われた。
桂宮さまの墓所は、2年前に薨去され、仲が良かった兄の寛(とも)仁(ひと)親王殿下が眠られる墓所の隣。真新しく盛られた土には「大勲位宜(よし)仁(ひと)親王墓」と書かれた仮墓標が立てられ、祭壇に皇族方がご拝礼。彬子さまは、「この御墓所で永遠にお鎮まりくださいますよう謹んで申し上げます」という趣旨の「斂(れん)葬(そう)詞(し)」と呼ばれる葬送の言葉を述べられた。
天皇、皇后両陛下は、慣例によって「斂葬の儀」には参列されなかった。川島裕(ゆたか)侍従長らを使者として差し向け、儀式の間は皇居・御所で桂宮さまを偲(しの)ばれたという。
両陛下は、日が改まった18日、墓所をご拝礼。墓前では、三笠宮ご夫妻、彬子さまをはじめとする皇族方が両陛下を迎えられた。陛下が墓前で玉ぐしをささげて拝礼され、皇后さまが続かれた。両陛下は拝礼後、三笠宮ご夫妻に歩み寄り、お悲しみをいたわるように声を掛けられた。
皇太子さまは17日、「葬場の儀」に参列後、羽田空港からスイス公式訪問へ出発された。儀式参列のため、当初予定を約3時間繰り下げてのご出発だった。18日(現地時間)は、首都ベルンで山岳遭難者らを救援する緊急ヘリ部隊の拠点などをご視察。19日(同)は、西部ヌシャテルで、ブルカルテル大統領主催の昼食会に臨席された。
宮内庁は20日、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまが今年9月末、英国中部の都市、レスター市にあるレスター大学大学院博物館学研究科に留学されると発表した。