「甲賀忍者の里」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
連載:濱口和久 探訪・日本の名城
ZAKZAK 夕刊フジ

水口城 堀に青い水をたたえていた「碧水城」


水口城


水口(みなくち)城(滋賀県甲賀市)は、寛永11(1634)年、徳川幕府第3代将軍、家光によって、京都上洛時の将軍滞在用の城として築城される。この地は「甲賀忍者の里」としても知られ、東海道の宿場町としても栄えたところだ。

 築城に際し、作事奉行には、建築家や作庭家、茶人として有名な小堀遠州(えんしゅう)があたり、延べ10万人の大工が動員され、3年の歳月をかけて完成した。

 城は、京都の二条城(京都市中京区)を小型にしたもので、本丸と二ノ丸の2郭で構成され、特に将軍の御座所である本丸御殿は、豪華な造りであった。

 水口城が将軍の宿舎として使われたのは、家光上洛の1回限りで、その後は、幕府の任命した城番が管理する「番城」となる。城番は5000石~1万石の旗本や大名が1年任期で務めた。

 天和2(1682)年、石見(いわみ)国(島根県西部)より加藤明友(あきとも)が入城し、水口藩が成立すると、水口城は加藤氏の居城となる。ちなみに明友の祖父は、羽柴(後の豊臣)秀吉の家臣で「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍」の1人に数えられた加藤嘉明(よしあき)だ。

 明友は入城すると、二ノ丸(二ノ丸御殿)を整備し、藩政の拠点とする。武家地が城の北に拡大したため、やむなく東海道の迂回(うかい)や、寺社や集落、町屋などの移転を行う。

 水口城は、湧水を利用した堀に青い水をたたえていたことから、別名「碧水(へきすい)城」とも呼ばれている。

 明治維新後、水口城は廃城となると、角櫓(すみやぐら)が付近の商家に売却され、石垣の一部が近江鉄道の敷石になるなど、建物や石垣の大半が処分された。旧本丸跡は、水口高校のグランドとして利用されている。

 平成3(1991)年11月、水口城の歴史資料を展示する施設として、往時の御矢倉の姿を模した、木造2層2階建ての水口城資料館が開館した。 =次回は鶴岡城(山形県鶴岡市)

【所在地】滋賀県甲賀市水口町本丸4番80号
【城地の種類】平城
【交通アクセス】近江鉄道本線「水口城南駅」下車、徒歩約5分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。