成年式を迎えられ冠、装束姿の桂宮宜仁親王=昭和43年2月
霧雨が降る日曜日の、突然のご訃報だった。三笠宮さまの次男で、天皇陛下のいとこに当たる桂宮さまが8日午前、急性心不全のため東京都文京区の東京大学医学部付属病院で薨去(こうきょ)された。複数の農林業、工芸団体の総裁として各業種の振興に尽力し、ご自身も病で障害を抱えつつ「ほかの障害者のために」と、長く車いすで公務を続けられた。66年のご生涯をしのび、列島は悲しみに包まれた。
宮内庁によると、宮邸(東京都千代田区三番町)で体調が急変されたのは8日朝。東大病院で蘇生措置がなされたが拍動は戻らず、駆け付けたご両親の三笠宮ご夫妻が最期をみとられたという。
宮内庁では正午過ぎから記者会見が開かれ、西ケ広渉宮務主管が「謹んで哀悼の意を表する次第であります」と、沈んだ面持ちで桂宮さまの薨去を発表した。
桂宮さまのご遺体を乗せた車は午後1時ごろ、東大病院から桂宮邸に到着。三笠宮ご夫妻をはじめ皇族方が次々と駆けつけられ、夕方には天皇、皇后両陛下も弔問に訪れられた。宮内庁関係者によると、「三笠宮ご夫妻は普段通りのご様子で、ご家族で静かに過ごされていた」という。
宮邸前の歩道は報道関係者で埋め尽くされ、通用門では生花や供物が届くたびに職員が忙しく対応していた。宮邸近くの学校に通っていたという新宿区の主婦は「ご両親のお気持ちを考えるとおかわいそう。残念です」と話した。
一夜明けた9日午後には、ご遺体は宮邸から赤坂御用地(東京都港区)の赤坂東邸(ひがしてい)に移され、三笠宮ご夫妻をはじめとするご親族が参列して一般の納棺にあたる「御舟入(おふないり)」が営まれた。続いて最後のお別れをする「拝訣(はいけつ)」には、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻も加わられた。両陛下は慣例で参列せず、御舟入の前に赤坂東邸を訪れて弔問された。
桂宮さまの薨去に伴い、両陛下は8日から5日間、喪に服された。三笠宮ご夫妻は30日間、皇太子ご夫妻をはじめ皇族方は5~7日間、喪に服されることに。服喪中は華やかな行事を控えられるが、公務などで外出される際には、一時的に喪を外す「除喪(じょも)」と呼ばれる手続きが取られる。
深い悲しみの中にあっても、両陛下は、この除喪の手続きを取って公務に臨まれた。9日は、東京都港区のグランドプリンスホテル新高輪で、重い障害を持つ人々を支援してきた「全国重症心身障害児(者)を守る会」の創立50周年記念大会にご臨席。
静養のため葉山御用邸(神奈川県葉山町)に入られた11日には、同町の湘南国際村センターを訪れ、日本学術振興会(JSPS)が主催する、欧米の若手研究者を招致して共同研究を行う「JSPSサマー・プログラム」の歓迎レセプションに臨席された。
皇太子さまは9、11日に予定していた青年海外協力隊隊員との懇談を取りやめ、10日の新日鉄住金君津製鉄所(千葉県君津市)の視察を延期されるなど、皇族方のご予定は変更された。桂宮さまの「斂葬(れんそう)の儀」を17日に控え、日本サッカー協会名誉総裁を務める高円宮妃久子さまは、サッカーW杯ブラジル大会での日本代表戦ご観戦などのため12日に予定していたブラジルなど3カ国訪問の出発を、18日にご延期。
久子さまの三女、絢子さまは9日、短期留学先のカナダから、一時帰国された。
