「乾坤一擲(けんこんいってき)」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(61)
ミッドウェーで一瞬の暗転…暗号読まれ「おびき寄せ」は裏目に




ミッドウェー海戦で炎を上げ沈没寸前の空母「飛龍」。4空母の中で最後まで戦い続けた=昭和17年6月、後続部隊が飛ばした日本の偵察機から撮影(共同)


 作家、司馬遼太郎氏が「街道をゆく」シリーズの『三浦半島記』で、先の大戦のミッドウェー海戦に触れている。古い友人で産経新聞編集局長をつとめた青木彰氏の父、泰二郎海軍大佐が、この海戦で沈んだ空母「赤城」の艦長だったことからだ。

 司馬氏は海戦での日本の敗因のひとつを、暗号電文を米国側に解読されるという「情報」にあったとし、こう書く。

 「『赤城』の艦長の子息が、半生、実務と学問の主題を情報に置きつづけてきたのも、ミッドウェーの悔恨と無縁でなかったかもしれない」

 ミッドウェー諸島は国際日付変更線のわずかに東の太平洋に浮かぶ小さな島々である。もともと無人島だった所へ、米海軍が陸上基地を設けた。昭和17(1942)年6月、この基地を日本軍が攻撃することになったのは真珠湾同様、連合艦隊司令長官、山本五十六の進言だった。

 いくら南方を制圧しても太平洋に米艦隊がいると、いずれ反撃に出て日本本土を攻撃される。先制攻撃で全滅させないかぎり安全は保障されない。というのが山本の揺るぎない信念だった。

 日本軍がまずミッドウェーを攻撃すれば米艦隊がハワイから駆けつける。そこを待ち受けた大艦隊がたたき、殲滅(せんめつ)させる。いわゆる「おびき寄せ」作戦だった。

 この時期、陸軍参謀本部は、奪い取った南方を死守、米英がドイツに負け戦意を失うのを待つべしとしており、山本案には反対、海軍でも軍令部は慎重だった。

しかし17年4月、太平洋上の米空母を飛び立った16機のB25爆撃機が東京、川崎などを空襲、山本の危惧が現実味を帯び、ミッドウェー作戦が実行に移された。

 海軍記念日の5月27日、真珠湾攻撃で主力となった「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4空母など南雲忠一中将麾下(きか)の機動部隊が広島湾を出発、2日後の29日には戦艦「金剛」などの攻略部隊、山本司令長官直率(じきそつ)の戦艦「大和」など主力部隊が次々とミッドウェーに向かった。これに島を攻略するための海軍陸戦隊や陸軍一個大隊も加わった空前の大部隊だ。

 むろん作戦は極秘だったが、米軍は司馬氏が指摘するように、日本軍の暗号を解読することでほぼその全容をつかんでいた。ただ攻撃地として暗号にある「AF」については測りかねていた。

 だが試しにミッドウェーの基地から「蒸留施設が壊れ、飲み水に困っている」という偽の無線を打ってみた。これを傍受した日本軍が「AFは真水に困っているらしい」と暗号電報を打ったため、ミッドウェーだと確信する。

 このためハワイから空母「エンタープライズ」など機動部隊を海域の東方に派遣、逆に日本軍を待ち伏せした。それと知らぬ日本の機動部隊は、6月5日(現地4日)未明、第1次空襲隊がイースタン島などの飛行場を爆撃した。だが破壊が不十分だったため、南雲は第2次隊を向かわせようと、攻撃機に積んであった艦船攻撃用の魚雷を下ろし、基地攻撃用爆弾に替えさせた。

だがその途中、索敵機が米空母が近くにいることを発見、再び魚雷に積み替え、発艦しようとした午前10時24分、米軍の急降下爆撃機がいっせいに「赤城」などを襲う。魚雷や爆弾を抱えた自軍の攻撃機が次々と爆発、「赤城」「加賀」「蒼龍」は30分後には炎に包まれて沈没、残る「飛龍」も夕方までに沈む。後方の主力部隊は援軍に間に合わなかった。

 暗号解読など「情報戦」で負けたのは確かだった。だがそれでも積み替えに手間取らずあと30分も早く飛び立てておれば、互角に戦えていた。逆に米軍は、圧倒的に戦力が劣る中、日本軍の混乱を狙い、一か八かで全機を攻撃に向かわせた。真珠湾のお返しともいえる「乾坤一擲(けんこんいってき)」の勝負が成功したのだ。運がわずかに米側にあったと言ってもいい。

 だがこの致命的な敗戦で、北太平洋の制海権は米国に握られ、緒戦圧勝の戦況も大きく米側に傾いていった。(皿木喜久)

                   

【用語解説】本土初空襲

 昭和17(1942)年4月18日白昼、米爆撃機B25が16機、日本本土に飛来した。このうち、13機は東京や横須賀など、3機は名古屋や神戸などを爆撃した。日本側は爆撃があっても翌日と見ていたこともあり、全国で40人以上の死者が出た。

 B25は日本の東約1200キロの太平洋上の空母「ホーネット」から発進した。ドーリットル中佐率いる80人が搭乗、爆撃後は日本軍が占領していない中国の飛行場に着陸する予定だったが、実際には途中で燃料切れになって日本占領地区に不時着するなどして、捕虜となったパイロットも多かった。