国益を毀損させ続けてきた東京大学の重罪 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
軍事=戦争という短絡思想が、無責任すぎる軍事忌避を生んだ
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2014.06.02(月)  森 清勇



 「産経新聞」は平成26(2014)年5月1日および15日付で、東京大学の「軍事忌避」について報道した。それによると、昭和34年の評議会で軍事研究を禁止し、42年には外国軍隊からの資金供与を禁止したとされる。

 評議会決定の結果であろうか、旧帝大で東大のみが自衛官の研究科(修士課程および博士課程)への受け入れを拒否してきた。

 筆者は拙論「東大卒に率いられてしまった日本の不幸 防大卒よ井の中から飛び出て日本再建の先兵となれ」(2012.1.13)で、安全保障が国家の基本でありながら疎かにされており、各官庁の東大卒幹部職員は自分が所属する省庁の利益確保に血眼で国益を毀損していることなどを論じた。

 日本の官僚組織は「省益あって国益なし」と批判されてきたが、そうした状況を率先してきたのは多くが各省庁の幹部となった東大卒官僚たちであった。内閣人事局の発足で、省庁横断の人事や卒業年次にとらわれない柔軟性ある人事で、国益に資することを期待したい。

最高学府にこそ安全保障講座が必要

 安全保障は国家存立の基本である。外交で安全が保持できれば言うことはないが、現実世界はむしろ軍事で安全が担保されていると言っても過言ではない。その観点からは日本の安全や平和は憲法が担保しているというのは少し違うのではないだろうか。

 平和憲法という美名のもとに自分の国を自分で守ることをしてこなかったから、今日のように自国の領土である尖閣諸島などが侵犯されても十分な対処ができないでいる。

 静かな環境で教育や研究ができればそれに越したことはないが、そうはいかない現実が安全保障分野の学問・研究を必要としている。どの国でも安全保障が最大の関心事であり、最高学府には安全保障や軍事に関する講座があるのが通常である。

 軍事は戦争を前提にしており、そうした自衛官を受け入れるのは、およそ学問の府には似合わないという考えもあろうが、3つの意味において間違いである。

 1つは自国の安全は自国で守るという意識の欠如である。敗戦直後の日本は食べることで精いっぱいで、相撲は他人にとってもらってきた(すなわち国防は米国に依存してきた)。これは例外的なことで、本来独立国家としてあるべき姿ではない。

 2つ目は軍事についての理解不足である。古来勢力均衡(バランス・オブ・パワー)という考えがあるが、特に核兵器が出現して以降の冷戦構造は端的にそのことを示していた。今日、軍事は戦争を起こさない抑止力として機能する面が大きく、そのためにも勢力均衡が不可欠となっている。大学は学問的な視点から追求する任がある(のではないだろうか)。

 3つ目は安全保障に直接的に関わる自衛官ではあるが、安全保障などに関わる講座がない環境下で、純粋に科学技術や研究管理手法などを学ぶことを目的にした自衛官を忌避する間違いである。

日本が二度と立ち上がれないようにと米国から軍隊非保有の憲法を押し付けられ、これを奇貨として戦後の大学では安全保障に関わる学問を排除してきた。しかし、何事も安全あってのことであるから、安全は誰かに保持してもらって、最高学府の大学、就中東大は象牙の塔にこもって知らんぷりを決め込んできたのではないか。

旧軍将校を受け入れた東京帝大

 旧軍時代は国際社会全体が帝国主義の時代であり、軍人は尊敬され博士よりも大将を目指す風潮があった。士官学校で恩師の軍刀を拝領する優秀な将校の中には、技術で貢献してくれないかという声がかけられて困惑する者もいた。博士号を取っても技術将校では大将にはなれないシステムであったからである。

 ともあれ、東京帝大にも員外生として軍人が送り込まれ、優秀な技術将校として育っていった。しかし、そうした成果が有効に活用される機会は少なく、結果的には米国の技術と物量(いわゆる兵站)を背景にした戦略・戦術に翻弄され敗戦に至った。

 余談であるが、多くの重要な技術は元来軍事用に開発されてきた。レーダーは英国がドイツの空襲を予知するために開発したものであり、(カーナビの元になっている全地球的位置システムと呼ばれる)GPSは米国が世界に展開した軍隊の通信指揮用に開発したものである。原子力発電も当初は原爆として米国を中心に英加が秘密裏に開発したものである。

 日本も八木アンテナなどの素晴らしい技術を開発していたが有効に活用することができなかった。しかし、こうして蓄積された軍事技術が戦後の日本では民間技術として拡散し、「技術立国」をもたらすことになる。飛行機や宇宙システムなどへの素材や部品供給、新幹線開発などに日本の技術力がいかんなく発揮された。

 軍事用に開発された技術を民間技術に応用することをスピンオフという。例示すればきりがないが、今日身近なところに応用されているものの1つにノンステップ・バスのニーリング(車高昇降装置)がある。車いすや高齢者などの乗降を容易にするために、乗降口が低下したり傾斜したりする装置である。

 これは走行中の戦車が高い命中精度で射撃できるように、地形の凹凸に応じて姿勢を上下させ、戦車砲を定めた目標に維持するシステムの応用である。

 今日は民間技術が高度化しており、過酷な運用条件に耐える抗堪性が求められる部位・部品以外は、経費節減などの観点から逆に民間技術が装備品には多用されるようになっている。これはスピンオンと呼ばれている。

自衛隊幹部の受け入れを忌避した東大

 自衛隊幹部が東大研究科へ受け入れられなかったのは、大学が軍事忌避の方針をとった時期と一致している。

 産経新聞は「『学問の自由』を事実上制限してきた」と述べるが、それは学内の関係者についてのことである。もっと広義には自衛官排斥という、沖縄で自衛官の子弟が入学を拒否されたのとはいささか異なるが、一種の差別であり人権問題ではなかっただろうか。

 防衛大学校は幹部自衛官を養成する防衛庁(当時)傘下の大学であったが、文部省(当時)の大学設置基準にのっとり設置され、単位などは基準を満たしていた。そのうえで、幹部自衛官として必要な特別教育や各種の訓練は夏季・冬季等の休暇を活用して行われた。

技術・兵站を重視する自衛隊は、防大に研究科がなかったこと、そして海外の大学院への留学は経費がかさむことなどから、技術幹部養成のために旧帝大に送り込むことにし、東大を除く各大学は受け入れてくれた。

 技術幹部を目指す自衛官は、主として東北大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の研究科を受験したが、前述したようにどの大学にも安全保障講座などはなかったので、各大学の院生が履修する科目を受講することが主体であった。

 東大が自衛官の受け入れを拒否したのは「軍事研究はもちろん、軍事研究と疑われるものも行わない」とした評議会での方針に従ったものであろうが、そこには「自衛官=軍事研究(と疑われるもの)」、と短絡した考えからであろう。

 「DINKS」という言葉がある。Double Income No Kidsの略で、共働きで裕福であるが子供を意識的に持たないセレブな生活観のことで、結婚して日が浅く子供がいない夫婦や、何らかの事情で子供を持てない夫婦などは含まない。若い時は精いっぱいエンジョイして、老後は他の家族が苦労して育てた子供に支えてもらう無責任なスタイルである。東大は正しくこのDINKSであったのだ。

反戦的な当時の構内

 昭和30年代後半から40年代前半はベトナム戦争反対や日米安保条約延長阻止などの運動が盛んで、全学連の動きが報じられない日はなかった。筆者が履修した昭和41年、いわゆる1966年は京大構内でも毎日のように、学生団体などの騒ぎが起きていた。

 学生と教授陣の団体交渉や、学生団による総長吊るし上げが常態で、総長たちは精神的にも肉体的にもくたくたになり、侍医から注射を受けながら対応する凄まじい状況をしばしば目撃した。東大安田講堂事件などもその後に起きた。

 筆者は偶々日常生活に欠かせないエネルギーに関心があり、行く行くは枯渇すると言われていた化石燃料に代わるものが欲しいと思っていた。そこで、核融合に関心を持ち、研究することにした。全く民生的な意識である。

 学生運動は主として学部の活動であったが、構内が騒々しくては勉学に相応しい落ち着いた雰囲気にはなり難い。また安保改定絡みでもあり、短絡的には軍事や戦争問題ともみられていた。

 筆者は学部学生から「自衛官が核研究」とか「戦争準備」などの批判を受けた。階段やトイレの正面にはビラが貼られ、七夕の短冊には牽牛や織姫に代って「自衛官は去れ」なども登場し、批判の対象にされたりした。

 自衛官を受け入れた大学ではいろいろな問題が生じていたことは確かである。履修2年目に、在学中の課程のみ保証する旨の伝言があったと記憶する。こうして修士課程の我々は博士課程への進学は認めないなど一段と狭き門になったが、大学当局は自衛官に期限付きながら勉学させるという方針を貫き通したことは確かである。

全体的に反戦的な雰囲気が漂ってはいたが、安全保障は国家の基本であり、その直接的な担い手である自衛官の受け入れを否定しなかった学校当局はあっぱれであったと思う。

 東大のみは軍事忌避から、自衛官を受け入れた他の大学の苦労など知る由もなく、唯我独尊か夜郎自大か知らないが、国家の存立に関わる問題から逃避していたということになる。

おわりに

 『偕行』2012年8月号は「南京事件」を特集している。その「各論4」で歴史研究家の溝口郁夫氏は第2次世界大戦時の米陸軍参謀総長であったマーシャル元帥が終戦直後の1945年9月1日に出版した『戦闘報告書』の翻訳に絡む経緯を考究している。

 最終章は「日本は奉天、上海、真珠湾、バタアンにおける悪逆に対し充分なる償ひをさせられてゐるのであった」(46年8月発刊の最初の翻訳本)と書かれていた。

 ところが、1946年5月に東京裁判が始まり、7月には南京陥落時に城内にいた欧米人や中国人が召喚されて日本軍の悪行を証言し始める。こうして、東京裁判および南京裁判では南京事件で虐殺30万人などと騒がれるようになる。

 その結果を反映するかのように、同11月発刊の別の翻訳本では「日本は南京、奉天、上海、真珠湾及びバタアンにおける反逆に充分なる代償を拂はせられつヽあった」となる。

 原書にない「南京」が3か月後の翻訳本に幻のように現れ、しかも時系列的には「上海」の後に来るべきであるにもかかわらず、「奉天」の前に追加される混乱ぶりである。この翻訳をしたのは東京帝大中退の堅山利忠氏である。悪逆非道の日本にした原点とも言えよう。

 溝口氏は、「アメリカが戦後に創作した南京大虐殺」に「左翼的日本人が密かに協力していた事実」を忘れてはならないと警告する。

 東大の軍事忌避は政界や言論界で一層の影響力を発揮し、戦後日本のレールを敷いて国益を毀損させ続けてきたのではないだろうか。