【大阪特派員】「アホ」になって国を守る 近藤豊和
「みずからを守り、また町を守り、また社会を守り、国を守って、そして共同の繁栄を裏づけていくところに、私は自衛の本旨があるかと思うのであります。もしこれをしないということは、天の意思と申しますか、『自然の摂理に反する』ことになろうかと思うのであります」
50年前の昭和39年2月24日。大阪・中之島で開かれた「大阪防衛協会」の創立総会。初代会長となった松下幸之助氏(当時・松下電器産業会長)は、防衛とは国家の自然権であることを自らの言葉で見事に喝破していた。
大阪防衛協会は、昭和38年に福井、新潟両県などを襲い200人以上の犠牲者が出た「38豪雪」の際の自衛隊のめざましい救助活動への「感謝」を創設の端とし、自衛隊への理解深化と広範な支援活動を続けている。
設立発起人25人には、松下氏をはじめに、阿部孝次郎・東洋紡績会長、小田原大造・久保田鉄工社長、武田長兵衛・武田薬品工業社長(いずれも当時)ら関西財界のそうそうたる面々をはじめに、朝比奈隆・大阪フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(同)や詩人の安西冬衛氏らも名を連ねている。
創立当時は、東西冷戦のまっただ中。東京五輪があった39年10月には中国が初めて原爆実験を行い、翌40年にはベトナム戦争で米軍が北爆を開始している。朝鮮戦争の勃発で連合国軍総司令部(GHQ)の指令で組織された警察予備隊を母体に、その後の保安隊から自衛隊が創設(29年)されて10年目。世間での理解はまだまだ十分とは言えなかった。事実、「38豪雪」で関西駐屯の自衛隊の福井県内への出動の際にも、反対する一部労組があったほどだという。
大阪防衛協会が44年10月に開催した「講演の夕べ」での薬師寺管長(当時)の高田好胤氏の話は自衛隊を取り巻くその頃の時代の空気を如実に物語っている。
「私は自衛隊へ行って、一生懸命訓練している人々を見ると、税金泥棒とか何とか言うのは、これは日本の国を思っている人が言う言葉かと思います。自衛隊へ行った時は、今どき自衛隊になる奴はアホや、という話をするんです。そのアホこそが日本を今後支えてくれる人やと思うのです。そして、我々日本人はあまりにも小賢しくなりすぎていますが、最小の効果のために最大の努力を惜しまない、そういう偉大な日本人、ひとりひとりが偉大なアホになった時、この日本が守れていくのじゃないかと思います」(講演記録から抜粋)
必ずしも適正な評価を得なくても黙々と日本の安全を守り続ける「アホ」がいてくれる。今でも胸にジンとくる講話ではないか。
現在の大阪防衛協会は、6代目会長を井上礼之・ダイキン工業会長が務め、在阪の主要企業など172社が特別会員、約千人が賛助・普通会員となっている。
大阪防衛協会の理事長を務める今西恭晟・今西土地建物会長は「自衛隊が誇りを持って国家国民を守り活動できるように支援の機運をさらに拡大したい」と語る。一方、関西などを所管する陸自中部方面総監の堀口英利陸将は「熱い支援には本当に感謝している。青年部や婦人の方々も非常に熱心だ」と応える。大阪のように全国の46都道府県には防衛協会があり、その他の組織も自衛隊への激励やさまざまな支援活動を実施している。
創設(自衛隊法施行)から今年7月で60周年となる自衛隊。その評価は高田管長が憂えた頃とはかなり変容してきている。大阪防衛協会のような地道な活動が果たしてきた役割も大きい。それでも自衛隊への偏見がまだ払拭できないが、今でも偉大なありがたい「アホ」でいてくれている。(こんどう とよかず)