No.971 平成26年 5月26日(月)
昨日に続き、楠木正成に関して書いておきたい。
まず、延元元年(一三三六年)五月二十五日、湊川に於いて自決を決意した楠木正成と弟の正季そして共に自決した郎党七十余人が誓った「七生報国」について、
この誓いは、我が国が万世一系の天皇を戴く国であることと不可分である。
正成らは、我が国が万世一系の天皇を戴く国であるから、生き返って天皇のために朝敵を撃つと誓ったのだ。
同時期、南朝の北畠親房は、「神皇正統記」を書き、その冒頭に
「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、、日の神長く統を伝え給ふ。我が国のみこのことあり。異朝には其の類なし。よって神国と云ふなり。」
と断じた。
楠木正成等の「七生報国」の誓いは「大日本は神国なり」との確信と不可分である。
次に、昨日、楠木正成の湊川の戦いと、
三百六十六年後の大石内蔵助ら赤穂浪士の吉良邸討ち入り、
五百四十二年後の西郷隆盛等の西南の役、
六百三十四年後の三島由紀夫らの市ヶ谷谷における自決、
とは同じであると書いた。
では、何が同じなのかと言えば、
死生観と戦闘思想において、同じである。
ここにおいて、我が日本は、支那と全く異なる。
支那人は、この三つとも理解できず、例えば忠臣蔵は、独りの老人を四十七人が寄って集って殺したとしか理解できないし、負けるのが分かっていて何故敢然と戦いに行くのか分からない。
まず、死生観について日本人は、
念々死を覚悟して始めて真の生となる(森信三師)
今日死ぬことが最高の生き方(特攻隊員)
武士道とは死ぬことと見つけたり(葉隠)
身は朽ちても大和魂は留まる(吉田松陰)
悠久の大義に生きる(沖縄の牛島満第三十二軍司令官)
と確信している。
この思いは、楠木正成にも大石内蔵助にも西郷隆盛にも三島由紀夫にも、特攻隊員ら英霊にも、そして、東日本大震災の警察や消防の殉職者にも、さらに我々にも共通している。
次に、戦闘思想において何が同じか。
それは、武力の行使を
「無秩序と不和から秩序と和を生み出す為の誠心誠意の精鋭」
と捉えていることにおいて同じなのだ。
彼ら、楠木正成や大石内蔵助や西郷隆盛や三島由紀夫は、
誠心誠意の武によって、
「天皇の国の秩序と和」
を回復しようとした。
この思いが、地下水脈のように共通している。
この戦闘思想は、平安朝末期に、我が国の国柄と相容れない「孫子」に対して、大江匡房によって記された「闘戦経」によって蒙古を迎撃した鎌倉武士、そして鎌倉幕府と闘った楠木正成、さらに江戸期に入って山鹿素行を経て大石から西郷に伝えられてきた。
この我が国の戦闘思想に対して、支那の「孫子」といゆ戦闘思想は「兵は詭道なり」とする。つまり、敵を騙し意表を突いて撃破して殲滅することを目的とする。
これは、異民族を情け容赦なく征服し不義の敵を絶滅させる易姓革命の地域の戦闘思想である。
我が国は、万世一系の国であり、敵も味方も同じ天皇を戴いている。従って、孫子の「詭道」は、我が国の国体とは相容れない。
なお、楠木の湊川と西郷の西南の役とは、
ともに変革期に於ける「道義的混乱」から
「天皇のもとに於ける秩序と和」
を築く為の、やむにやまれぬ両雄の死の覚悟から行われたのではないかと思う。
建武の新政に対する「二条河原の落書」は、
「この頃都に流行るもの、夜討ち、強盗、偽綸旨(偽の天皇命令)・・・」
と書き出され、俄大名らの道義の退廃を訴えるものである。
建武の新政に於いては論功行賞の為に奔走する輩が排出し、
何もしなかった公家が厚遇され、武士の不満は鬱積したが、
楠木正成のみ、この猟官・ご褒美獲得競争に関心を示さず無縁だった。
また、明治維新に於ける西郷隆盛の心境は、次の西郷の言動に現れている(西郷南洲遺訓より)。
「然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を計りなば、維新の功業は遂げられまじき也。
今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、
天下に対し、戦死者に対して面目無きぞとて、
頻りに涙を催されける。」
湊川も西南の役も、この退廃する事態を前提にして敢行されたものと観れば、
楠木と西郷は、尊皇の志きわめて深く、変革期を同じ心境で生きた両雄であり、これからも、国家の激動期に甦る両雄であると思はざるを得ないのである。