正式名称は「大東亜戦争」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(59)
石油求め自存自衛の戦争…銀輪部隊もシンガポールを目指した



シンガポール陥落を前に走行する日本の「銀輪部隊」。戦争緒戦の快進撃を象徴していた =昭和17年2月(共同)


開戦から4日後の昭和16年12月12日、内閣情報局は次のような発表を行った。

 「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。…大東亜秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非(あら)ず」

 閣議決定に基づいたもので、あの戦争の日本での正式名称は「大東亜戦争」だった。

 しかし戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)がこの名称を使うことを禁じたため、マスコミも「太平洋戦争」と呼ぶようになる。禁止したのは「大東亜戦争」にアジアの新秩序建設や解放という日本側の「大義名分」を感じ取ったからだ。

 当時のアジア、特に東南アジアの大部分は英国、フランス、オランダなど西欧列強や米国の植民地支配下にあった。そのアジアを解放するというのだから、米英などにとって実に都合の悪い「大義名分」だったのだ。

 確かに開戦後すぐにアジアから欧米諸国を追い出し「解放」した。だが初めから純粋にアジアの解放や独立のため、自国の存亡をかけ戦ったのだろうか。

 最大の戦争目的は「石油」だった。当時すでに石油がなければ、近代国家として「自存」することも「自衛」することもできなくなっていた。特に海軍の場合、石油は命綱だった。

だが日本国内ではほとんど生産はできない。蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)など東南アジアに求めようとしたが、逆に米国などにより石油市場から締め出されてしまう。

 そこで「自存自衛」のため、米英などに戦争をしかけたというのが実情だった。そんな戦争目的を胸に、昭和16年12月8日、マレー半島に上陸を果たした山下奉文中将率いる第二十五軍はシンガポール目指し、南下を始める。

 タイ・シンゴラの第五師団の先鋒(せんぽう)隊は12日には早くも西岸から国境を越えて英領マレー(現マレーシア)に入る。英軍は植民地インドの軍を中心に対抗するが、制海権や制空権を握り、士気も高い日本軍はこれを突破していく。

 一部の歩兵部隊は日本から持ち込んだり現地で調達したりした自転車にまたがり、ゴムやヤシの林の中の舗装された道を「快調に」走り「銀輪部隊」の異名をとった。英軍は退却にあたりいくつかの川にかかる橋を破壊していったが、日本軍は工兵隊がすぐに架橋し後れはとらない。

 翌17年1月11日には西岸の中心都市クアラルンプールを落とし、31日には第五師団がシンガポール島対岸のジョホールバルに到達、近衛師団などを含む第二十五軍が続々結集した。

 英軍は増援部隊を集め南下を阻止しようとしたが、全く止められず、シンガポール島に籠城する作戦に出る。日本の陸軍は当初、陸軍記念日の3月10日までに攻略する作戦だった。だが実際には千キロ余りを55日間で踏破する予想外の早さで、急遽(きゅうきょ)紀元節(現建国記念の日)の2月11日までの陥落を目指すことになった。

2月7日夜、近衛師団の一部がジョホール水道東側にあるウビン島に上陸した。これは「陽動」作戦で、翌8日午前、日本軍は英軍の水際要塞に猛烈に砲弾を浴びせるとともに西側の水道を渡り、第五師団、第十八師団がシンガポール島北岸への上陸に成功、南側の市街地を目指した。

 英軍側はオーストラリア部隊やインド部隊が対抗したが、両部隊には厭戦(えんせん)気分が強く、投降が相次いだ。さらに日本軍により半島からの上水道をストップさせられ、水源地も占拠された。このため英守備隊の司令官、アーサー・パーシバル中将はついに15日夜、フォード自動車の工場で山下中将と会談、降伏した。

 日本軍が予想以上に早く陥落できたのは士気の高さもあったが、マレーや戦いにかり出されたインドの人たちの、支配者英国への反発が強かったこともあった。 (皿木喜久)

                 

【用語解説】イエスかノーか

 シンガポールを陥落させた第二十五軍司令官、山下奉文中将は電撃的にマレー半島を南下し、「マレーの虎」として一躍「陸のヒーロー」となった。

 3月15日夜、パーシバル英将軍との会談では、「降伏」なのか「停戦」なのかはっきりしない将軍に対し「イエスかノーかで返事されたい」と迫り、降伏を認めさせた。このことが新聞で報じられると「さすが猛将」「高圧過ぎる」など賛否両論の声が聞かれた。

 会談で日本側の英語力が乏しく、いらついたためとも、日本軍の砲弾不足を知っていた山下中将の「大芝居」だったともいわれる。


山下奉文 第二十五軍司令官