【ニッポンの防衛産業】
旭大隈工業「世界の主流」NATO弾を日本人向けに。
ZAKZAK 夕刊フジ7・62ミリNATO弾

敗戦から10年、弾薬製造の老舗企業である旭精機工業(当時は旭大隈工業)にとって、この空白期間に失われた技術は想像以上に大きかった。それでもなんとかはい上がり、米軍や警察から次々に受注、1957年には米極東軍司令部から感謝状も授与された。
しかし、好事魔多し。これと同時に発注が打ち切られたのである。
「突然やることがなくなって、毎日、草刈りをしていたようです」
地元の愛知県だけでなく、各地から希望者が集まり膨れ上がっていた従業員も多くが辞め、もう刈る草がないほど草刈りをしたという。時折しも日本は「なべ底不況」に入っていたころだ。
やがて防衛庁から細々と実包受注が入るようになったが、少量であるため会社を存続させるほどのボリュームではなかった。民需部門の拡大が不可欠であり、プレス機の製造など新規事業の開拓で経営を維持していた。
「次の転機は1つの研究開発でした。非常に厳しい条件でした」
58年、防衛庁はNATO弾の試作を東洋精機と旭大隈工業に発注したのだ。NATO弾とは、冷戦の時代に発足した北大西洋条約機構(NATO)が共同防衛の一環として、武器弾薬についても加盟国同士で互換性が持てるよう規格化を進めたものである。
防衛庁としても、小銃弾は7・62ミリNATO弾が今後、世界の主流になると考え、2社に5000発ずつ発注することになったのだ。
クリアしなければならない条件は次のようなものであった。
「NATO弾使用の小銃及び開発中の国産小銃(64式小銃)と機関銃(62式機関銃)に共有できること」
「日本人の体格に合った反動の少ないソフトなもので、かつ命中精度は高いこと」
西側諸国の銃に適合させるだけでなく、日本人が使うための施しが必須であった。苦労に苦労を重ね、旭大隈工業は通常のNATO弾よりも10%ほど発射薬量を減らした減装弾である7・62ミリM80普通弾を完成させた。
とはいえ、自衛隊からの発注だけで2社が弾薬製造を行っても生産能力をとても満たせない。そこで、国家的見地に基づき両社を一本化すべきだとされ、59年、通商産業省の主導で2社の合併が図られた。
協議の途上で、東洋精機が銃弾製造を打ち切ることを決めたため、旭大隈工業は営業権を譲り受けることになった。
■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)、「武器輸出だけでは防衛産業は守れない」(並木書房)など。