「絶対に勝てるのか」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(55)
昭和天皇は「絶対に勝てるのか」と 仏印で緊迫する日米関係



今もフランス統治の面影を残すベトナムのホーチミン市(かつての仏印サイゴン)。日本軍が南部仏印に進駐したことで日米の溝は決定的に深まった(共同)

 昭和16(1941)年7月28日、飯田祥二郎陸軍中将率いる第二十五軍は南部仏印(フランス領インドシナ)のナトランとサンジャックに上陸した。現在のベトナム南部にある港である。

 この地を支配していたフランスのビシー政権にすでに日本に抗する力はなく、1週間前に日本の進駐を認めていた。10カ月前の北部仏印とは異なり、「無血上陸」となった。

 さらに翌29日には日仏間で「仏領印度支那の共同防衛に関する議定書」が結ばれ、日本はサイゴン(現ベトナムのホーチミン)、プノンペン(現カンボジア)など8カ所の航空基地と海軍基地2カ所の使用権を得た。

 狙いは仏印との関係を強めるとともにこの地域に軍事圧力をかけることにあった。特に石油が豊富な蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)との経済交渉を有利に運び、石油を安定的に確保しようとしたのだ。

 前年に進駐した北部仏印のハノイからでは例えば英領マレー(現マレーシア)のコタバルまで約1600キロもあり、東南アジアを植民地として広く支配する米国、英国、オランダへの軍事圧力とはなり得ず、より近い南部仏印進駐となったのだ。

 だがこれに対し米国はただちに米国内の日本資産を凍結、8月1日石油の対日禁輸を発表した。

 日本の近衛文麿政権としては、進駐は合法的なもので、米国に口を挟まれるいわれはないと見ていた。だがルーズベルトの米国政権は日本をたたく絶好の機会とみたのである。

 この日米衝突の危機に、真っ先に反応されたのが、昭和天皇だった。7月31日には石油需給に敏感な海軍の軍令部総長、永野修身(おさみ)を召し「(日米)戦争となれば、その結果は」と下問された。軍令部総長とは陸軍の参謀総長とともに戦時になれば、戦争指導の役割を担う武官である。

 永野は「(日露戦争の)日本海海戦のような大勝はもちろん、勝ち得るか否かも、覚束(おぼつか)ないことです」と答えた。天皇は驚き、内大臣の木戸幸一に対し「つまり捨て鉢の戦争をするとのことで誠に危険だ」と感想をもらされたという(『木戸幸一日記』)。

 政府はこの後、近衛とルーズベルトの「首脳会談」で打開をはかろうとするが、米側は言を左右にしてこれに応じない。このため9月3日の大本営・政府連絡会議で次のような「帝国国策遂行要領」をまとめる。

 (1)自存自衛のため対米戦争を辞さない決意で10月下旬をめどに戦争準備を完整する(2)これと並行して米、英に対し外交手段を尽くし要求貫徹につとめる-というもので、10月上旬まで要求貫徹のめどがつかない場合、直ちに開戦を決意すると、期限も切った。

この要領は9月6日の御前会議で正式決定するが、前日内奏した近衛に対し昭和天皇は「戦争が主で、外交が従であるかのごとき感じを受ける」と懸念された。

 さらに天皇はその場で永野と陸軍参謀総長の杉山元も召され、杉山に「南方作戦は予定通りいくと思うか」「絶対に勝てるのか」などと下問された。

 杉山が「南洋だけは3カ月ぐらいで片付けるつもりです」と答えると、天皇から「(杉山が)陸相として支那事変は1カ月で片付くと言った記憶がある」などと厳しい追及があった。

 杉山が「絶対とは申しかねます」としたうえで「日本は半年や1年の平和を得ても続いて国難が来てはいけないのであります。20年、50年の平和を求めるべきです」と答えると、天皇は大声で「ああ分かった」と述べられた。

 こうした緊迫したやりとりは、近衛文麿の手記『平和への努力』や杉山が参謀本部の幹部に重要会議について説明したのをまとめた『杉山メモ』に残されている 読む限り、この時点で政府や軍がやみくもに対米戦争に向かっていたのではなかった。しかし、米国のあまりに厳しい対日姿勢に追い詰められていく。(皿木喜久)

                  

明治天皇の御製 昭和16年9月6日の御前会議で昭和天皇は突然祖父、明治天皇の御製(お歌)「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を読み上げられた。従来昭和天皇が開戦を憂慮、軍に自重を求めたものと解釈されてきた。

 だが近現代史家、加藤康男氏は月刊『WiLL』1月号で、近衛文麿や杉山元の書き残したものなどから、昭和天皇は「波風」を「あだ波」と読み替えられていたと指摘する。「あだ波」は「仇波」「敵波」と書けるから、戦争を始めるのは本意でなくとも、日本への圧力に対する覚悟を託されたものだとしている。


長く陸軍参謀総長をつとめた杉山元。昭和天皇から厳しいご下問を受けた