【朝日新聞研究】
全共闘の論客が紙面に登場 朝日ジャーナル記者が逮捕も
ZAKZAK 夕刊フジ2013年版の警察白書には「極左暴力集団は、組織の維持・拡大をもくろみ、暴力性・党派性を隠して大衆運動や労働運動に取り組んだ」とあり、反原発運動やオスプレイ配備反対運動への浸透を指摘している。
これらの背景はさておき、戦後は左翼運動がとても盛んであった。特に1960年代の後半、些細(ささい)な問題から大学紛争が起き、次第に過激化して大学封鎖が行われ、社会的な大問題になった。その頂点が68年とされる。
マスコミは紛争学生に同情的だったが、朝日新聞は抜きんでていた。朝日新聞取材班が、昭和の報道を検証した『新聞と「昭和」』(2010年6月、朝日新聞出版)には「朝日新聞社が発行する雑誌『朝日ジャーナル』は、全共闘の論客も紙面に登場させるなど、学生たちに同情的だった」(380ページ)と、はっきり記している。
全共闘とは大学封鎖を行った、強硬派の学生のことである。
大学紛争が警察力の導入で治まると、全共闘系学生の一部はますます先鋭化して、70年代には、暴力的なテロ活動を行うようになる。「過激派」と呼ばれた彼らは、ハイジャックや爆弾テロなどを凶行したが、そのなかで朝日新聞が密接に関わったテロ事件が起きる。71年8月21日に起きた、朝霞自衛官殺害事件である。
陸上自衛隊朝霞駐屯地で、歩哨任務中の一場哲雄陸士長が、何者かに殺された。後に学生3人が逮捕され、協力者として朝日ジャーナルの記者が逮捕された。この記者は朝日新聞を退社処分となるが、実は、さらに何人かが事件に関わっていたとされる。
事件当時の産経新聞記者、福井惇氏の著書『一九七〇年の狂気 滝田修と菊井良治』(87年、文芸春秋)の「あとがき」には、「朝日新聞は強制捜査の対象となった○○君(同書では実名)だけの個人的事件として免職にして対外的につくろったが、事件全体をみるとき、一番若い○○君だけがスケープゴートにされた感がないではない。それだけに実名で書くことにこだわりを持った。本当のワルは、むしろ仮名にした人物たちだったのではないか、という疑いをすて切れないのである」と記している。
74年8月30日には、東京・丸の内の三菱重工の玄関で爆弾が爆発し、8人の死者と数百人の重軽傷者が出た。この犯人は翌年5月になって逮捕されたが、「東アジア反日武装戦線」という極左暴力集団であった。
朝日新聞は、事件発生の直後、31日の朝刊に、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)事務局長の「こんなことをやった人間が悪いといってしまえば簡単だが、やはり背景を考えなければならない」とのコメントを載せた。テロリストに理解を示したようにも感じる。
戦後左翼の活動を客観的に見れば、日本の社会に大きな被害をもたらした過ちの連続であった。ただし、その歴史はきちんと回顧・反省されていない。そして、慰安婦問題同様、朝日新聞の責任も追及されていない。
■酒井信彦(さかい・のぶひこ) 元東京大学教授。1943年、神奈川県生まれ。70年3月、東大大学院人文科学研究科修士課程修了。同年4月、東大史料編纂所に勤務し、「大日本史料」(11編・10編)の編纂に従事する一方、アジアの民族問題などを中心に研究する。現在、月刊誌などでコラムを執筆する。著書に「虐日偽善に狂う朝日新聞」(日新報道)など。