硫黄島の星条旗と日章旗
ねず様のブログ・ねずさんのひとりごとより。■「慰安婦問題」に関する河野談話の見直しを求める署名
硫黄島の戦い(昭和20(1945)年2月16日~同年3月26日)は、大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘です。
日本軍は、20,933名の守備兵力のうち20,129名までが戦死されました。
硫黄島の戦いは、大東亜戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでもあります。
第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の、実に4分の1以上が、硫黄島侵攻部隊のために与えられています。
さらに米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名しています。
大戦後に制定されたアメリカ海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日でもあります。
戦没者を弔う米国立アーリントン墓地のアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものです。
今日書くのは、この擂鉢山にたてられた旗にまつわるお話です。
上の写真で、星条旗を掲げている竿(さお)、わかりますでしょうか。
これはパイプです。
そしてそのパイプは、まだ壕内に残っている日本の将兵たちの命を支えるためのパイプでした。
硫黄島は、その字のごとく、島全体に硫黄が噴き出す島です。
地下壕内の温度は、摂氏50度に達します。
ですから地下壕内に、水はありません。
壕内にこもる将兵の水は、外からパイプで、壕内に引きこんでいたのです。
この写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しました。
創立以来常にその存在意義が問われ続けていたアメリカ海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのです。
この光景を目撃したフォレスタル海軍長官は「これで海兵隊も500年は安泰だな。」と語ったとか。
実は、硫黄島の戦いの時点で、米国政府は歳費を使い果たし、国家破産目前の状態にありました。
けれど、この硫黄島の星条旗写真によって、膨大な戦費が民間の寄付で集められ、破産の危機を救っています。
この写真に写っている兵士たちが全米各地を回り、寄付金を得るための講演をしてまわっていた、というのも有名な話です。
けれどこの写真のパイプは、壕内の日本の将兵の命をつなぐパイプを取り外して立てたものでした。
そう思うと、とってもせつない気持ちにさせられます。
ちなみに、この写真に写っている星条旗は、米海兵隊が最初に掲げたものではありません。
いったん掲揚されたあとに、もう一度掲げたときのものです。
最初の掲揚と、次の掲揚。
その間に、何があったのでしょうか。
実は米軍が最初に擂鉢山に星条旗を掲げた日の深夜、日本の摺鉢山守備隊の兵隊さんが、これを奪還して、日章旗を掲げたのです。
米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼きました。
そしてふたたび星条旗を掲げました。
けれどこの二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取りました。
そして今度は、やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げられました。
どうして赤茶けていたかというと、その日の丸は、血で描かいたものだったからです。
この旗も、三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはありませんでした。
このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが手記に記しています。(「17歳の硫黄島」秋草鶴次著)
米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚しました。
秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いたのです。
大変、賑やかだったそうです。
翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを、島の反対側にある硫黄島の司令本部から見つけました。
秋草通信兵は、すぐに栗林中将を呼びました。
遠く、擂鉢山のてっぺんに、日の丸が翻っている様子を見た中将は、
「守備隊は頑張ってるな」とポツリと語られたそうです。
それを聞いたとき、秋草通信兵は、「思わず感涙にむせいだ」と書いています。
すでに通信網が遮断され、擂鉢山守備隊とは連絡がとれなくなっていたのです。
そこに掲げられた日の丸だけが、生きている証だったのです。
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