[山本五十六]夕暮れ思案~晩年の生き方(第2回)
2014.03.17(月) 工藤 美代子jbpress.ismedia
は12月8日といっても、世間であまり話題にならないが、山本五十六が1941(昭和16)年のこの日にハワイの真珠湾を攻撃した。
若い頃の私はカナダに住んでいたので、12月7日が、その日だと思い込んでいた。それはあながち間違いではなくて、時差のために北米では7日だったのである。

戦史にも軍人にもまったく興味がなかったのだが、ある日、母がつぶやいた山本に関する一言は今でも鮮明に記憶に残っている。
「山本五十六が死んだときね、軍部はそれをなかなか発表しなかったのよ。でも、パパはマスコミにいたし、長官と同じ新潟の出身だったから、いち早く情報を入手してママに知らせに両国まで来てくれたの」
「えっ? まだママがお嫁にいく前だったの?」
驚く私に母はあきれたような顔をした。
「そうよ、あたしがあの狸親父と結婚したのは終戦のちょっと前だもの」
そんなことも知らなかったのかと咎めるような声を出した。しかし、母は私が小学校の1年生に上がった時分にはもう父と別居して、2~3年後には離婚した。
父親不在の家庭で育った私は、なんとなく母に結婚について尋ねるのをためらうような気持ちがあった。いつ、両親が結婚したのかも知らなかったし、そもそもあんなに相性の悪い2人が、3人の子供まで成したのも不思議だった。
戦後になって出版社を設立し、その経営が軌道に乗ると、愛人をつくって家庭を棄てた父を、母はいつも「あの狸親父」と憎々しげに呼んでいた。
確かに父はデブでハゲで丸顔で、とにかく狸にそっくりではあった。
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後で知ったことだが、山本五十六は1943(昭和18)年の4月にラバウルからブインに向かう途中で、アメリカの戦闘機に撃墜されて死んでいる。日本が終戦を迎えるのは、それからさらに2年以上の月日が経過してからだ。亨年59。
問題は山本の死に方だった。病気とか、不慮の事故で亡くなるのではなくて、連合艦隊司令長官が敵のアメリカ機に撃たれるという事態は、本来ならあってはならないことだった。
山本の死は多くの日本人を不安に陥れた。この戦争はどうなるのか。本当に勝てるのだろうかという強い疑念が、国民の頭をよぎった。
それは私の母も同じだった。思わず父に尋ねたという。
「あのう、この戦争は負けるんですか?」
うつむいていた父が顔を上げ、はっきりと言った。
「はい。負けます。負けて新しい時代が来ますよ」
なんとも言えない心細さで母は足元が崩れるような気がした。絶対に勝つと信じているからこそ、母の実家である両国の写真館でも、祖父の弟子が何人も出征した。長男の生一も戦地にいる。次男の明も中学を卒業したら予科練に入ると願書を取り寄せていた。
この先どうしたらいいのだろうと沈み込む。母は、ふと雑誌の編集者をしている父の姿がなんとも頼もしく見えた。新しい時代が来るなんて断言した人は、彼女の周囲には一人もいなかったからだ。
「それが大失敗のもとだったのよ。なんかこの人に人生を懸けてみようって思っちゃったから」
そういって母はカラカラと笑った。
ふーん、それでは五十六が戦死しなかったら、写真館の一人娘である母は、父と結婚していなかったのか。ということは、この私も生まれていなかったわけだ。
若い頃の母は、決して美人ではないし、おそろしくワガママで金遣いの荒い娘だったが、愛嬌があって、けっこう求婚する男はたくさんいたらしい。
「じゃあ、ママはパパと結婚しなかったら、誰と一緒になっていたの?」
「そうねえ、あの頃、縁談があった鉄工所の社長の息子さんと結婚していたかな」
それは親が勧める、極めて妥当な結婚だった。堅実な実業家の跡取りとの縁談は、私にも悪くないと思えた。
しかし、母は両国という土地柄から、実家の写真館に出入りしていた大相撲の花形力士や、下町の鉄工所の息子さんといった安全な男との結婚には見向きもせず、誰が見ても風采の上がらない子持ちの雑誌編集者と結婚してしまった。
やがて自分が身を置く社会の何もかもが壊滅してしまうとしたら、新しい未来に夢を託せる男と人生を歩もうと決心したのだろう。
今になれば、自分がどんな家に生まれるかなど選べるはずもないのだから、あれこれ考えても仕方がないが、山本が生き長らえて戦後を迎えていたら、母の人生も全く違ったものになっていたかもしれない。そう思うと、ある種の感慨に襲われる。
結婚を決めてしまうほどの打撃を受けたのは母だけではなかった。山本の戦死は、日本の社会全体に計り知れない影響を与えた。
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それにしても、連合艦隊の司令長官といえば、つまりは艦上の人だ。戦艦大和に座乗していた山本が、なぜそんな南洋のジャングルで敵機に撃ち落とされたのだろう。山本を守れる方法はなかったのか。
やがてノンフィクションを書く生活を始めてからも山本五十六の名前は頭を去らなかった。
折にふれ彼に関する書物を読むと、ひどく恰好よくて女性にもてて、頭脳が抜群に明晰だったことが分かる。
ひょんなことから、山本の生涯を新潟の新聞に連載する機会を得たのは10年ほど前だった。
このときの読者の反応は凄まじかった。私は特に脚色を加えず、淡々とその生涯を書いただけだったにもかかわらず、たくさんの手紙を頂いた。中には山本五十六の家に奉公に上がったというお手伝いさんからの連絡もあった。
こんなに反響があるのなら講演会でもしましょうと新聞社側が言ってくれた。そこで山本の出身地である長岡で講演をすることになった。
別に自慢にもならないが、私の講演会はいつでも聴衆が定員に満ちたためしがない。たいがいは閑古鳥が鳴く。大きな会場を用意したら10人くらいしかお客が来なくて、急遽小さな会議室に移動して講演をしたなどという情けない話もある。知名度が不足しているのだから当然といえば当然だ。
だから、このときも内輪の親睦会みたいなものだろうと高を括っていたら、担当者が大慌てで電話をしてきた。
「大変です。300人収容できる会場を用意したのですが、新聞に講演会の予告を出したら、問い合わせが殺到して、どうも2000人近くが来そうです」
なんと大袈裟なと思いながら聞いていたのだが、実際に当日は超満員だった。正確な数字は知らないが、間違いなく、私の講演としては、あんなに大人数が集まってくれたのは、空前にして絶後と言える。
もちろん、それは私の仕事のせいではなくて、山本の人気を反映したものだった。長い年月、山本を追慕していた長岡の人々の誠実で熱い気持ちの表れだと思うと嬉しかった。
そのときも、私は改めて、なぜあんなに早く山本は戦死してしまったのだろうという思いに突き当たった。
前線視察のために山本は艦を降りてラバウルにいた。戦闘機に乗った操縦者は、飛行場で自分たちを見送ってくれる五十六の姿に感激して「この司令長官のために自分たちは喜んで死のうと思った」と書いている新聞記事もあった。
それほど現場の兵士たちの信望を集め、彼らの士気が高まるのなら、山本の存在は不可欠だったろう。前線視察というより戦場慰問といった方が正確だ。
このとき、敵の戦闘機の編隊が出没する危険があるブイン行きの取りやめを進言する部下もいた。護衛機が6機というのは少な過ぎるので、20機にしてはどうかという案も出されたが、山本が6機でいいと言って譲らなかった。
何を山本が考えていたのか、今となっては不明だが、後に司馬遼太郎は次のような一文を書いている。
「戦争はわずか二年で敗色に転じ、その間、司令長官山本五十六は、さほど必要でもない前線視察をした。
山本の行動を暗号解読によって知った米軍は、戦闘機隊を待ち伏せさせ、かれの飛行機を撃墜した。昭和十八年四月十八日である。自殺ともいうべき死だった。」(三浦半島記 街道をゆく42)
軍人である以上、山本は戦死を覚悟していた。遺書も認(したた)めていた。だが、戦地の奥深くへ進み行く姿は、あまりに死に急いでいたのではないかという疑いが残る。
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もうあの戦争から長い歳月が過ぎ、日本は平和な社会を謳歌している。
だが、私は今でも山本の死を過去のこととは思えないときがある。どんな人間も無意識のうちに生き急ぎ、死に急ぐことがあるのではないだろうか。明確な自殺とは、また違ったこころの距離で、じわじわと最期を迎える方向に歩き続ける。
だからこそ、山本の生涯に思いを重ねる人々が、まだ彼を懐かしみ追慕しているような気がするのである。
山本が好んで揮毫した「常在戦場」という言葉は、軍人にだけふさわしいものではない。どんな社会でも、生きている限りは、戦場にある。戦場に疲れたら自ら消え去るしかない。
奇しくも山本を「日本の戦略的頭脳」と看破していたアメリカのマッカーサー将軍が晩年に述べた存念である「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という表現もまた、山本の戦死に通じるものがあるのかもしれない。
しかし、人生の夕暮れは潔くという山本の美学を、私が分かるようになったのは、つい最近のことである。