三月十日と三月十一日、苦難に直面し克服する日 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 



西村眞悟の時事通信より。



No.948 平成26年 3月12日(水)

 

 三月十日は、
明治三十八年、日露戦争において我が軍が奉天の会戦に勝利した「陸軍記念日」であり、 昭和二十年、東京大空襲の日である。
 
 奉天の会戦は、日本軍二十五万人とロシア軍三十一万人が奉天付近で会戦した日露戦争最大の約十日間にわたる陸上戦闘であり、日本軍が一万六千余の戦死者を出しながら、かろうじて勝利し国家を滅亡から救った運命的会戦である。
 東京大空襲は、アメリカ軍がそれまでの軍事施設を攻撃の対象とする爆撃方針を転換し、軍事施設のない下町の木造家屋の密集する庶民の住宅地域を攻撃対象とした爆撃で、季節風の強い昭和二十年三月十日未明、三百二十五機の戦略爆撃機B29が一機宛て六㌧の焼夷弾を投下して実施され、主に江東区、墨田区、台東区そして中央区の人口密集地帯が焼き払われた。
 そして、一夜にして子供老人を含む無辜十万人が犠牲となる世界史上最大の被害がもたらされた。

 三月十一日は、
 三年前の平成二十三年、東日本を巨大地震と巨大津波が襲った日だ。津波により東日本の沿岸部は壊滅し死者行方不明者は約二万人にのぼる国難となった。

 三月十日、乃木希典軍司令官率いる第三軍に所属した北海道旭川の第七師団の地にいた私は、三月十一日早朝、氷点下十六度の旭川空港を離陸し、三年前の大災害の被災地である東日本沿岸部に沿って南下して東京に着き、午後二時四十分からの「東日本大震災三周年追悼式」に参列した。
 
 三周年追悼式は、まことに厳粛で、
天皇皇后両陛下の御臨席と国歌斉唱によって始まり両陛下の御退席とその後の献花よって終わった。
 天皇陛下のおことばの後、ご遺族代表の言葉があった。
 息子を亡くした岩手県代表の浅沼ミキ子さん、
 妻を亡くした宮城県代表の和泉勝夫さん、
 父を亡くした福島県代表の田中友香理さん、
 が「東日本大震災犠牲者之霊」と墨書された木柱に向かって話されると、式場に鼻をすする音がふえ人々は涙をそっとふいた。

 天皇皇后両陛下は、御退席に際してお立ちになると、三人のご遺族代表が話を終えて戻られた遺族席に対して深々と頭を提げてご挨拶をされた。そのご様子を拝し、嗚咽がこみ上げた。

 天皇陛下は、三年前の地震直後の三月十六日、直接国民に「おことば」を発せられて、被災者をいたわり励まされ、全国民が力を合わせて被災地の復興に向かうように呼びかけられ、宮中の暖房と燈火を切られて被災地と同じ不自由なご日常を過ごされながら、たびたび被災地に赴かれて犠牲者の霊に合掌され、また被災者を励まされた。
 その両陛下のお姿が、三月十一日の追悼式の会場にもそのままあられた。
 両陛下の御退席にあたり、嗚咽がこみ上げたのはこのありがたいお姿を拝したことによる。

 以上の通り、「東日本大震災三周年追悼式」の会場である三月十一日の国立劇場には、
 天皇とともに民族の苦難と悲しみに直面しつつそれを克服してゆく日本民族の姿があった。