台湾二二八事件 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 



ねず様のブログ・ねずさんのひとりごとより。



台湾二二八事件



2月28日は、台湾二二八事件が起こった日です。
昭和22(1947)年のことです。

事件後、台湾に進駐していた国民党軍は、その後約40年間にわたって、台湾を「戒厳令」下におきました。
「戒厳令」というのは、国家緊急権としてすべての法の執行を停止し、行政司法立法権のすべてを、軍の掌握下に置くというものです。

戦前の台湾は、日本でした。
教育も政治体制も、すべてが日本本土と同じ体制でした。
当時の台湾の人々は、日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていました。

終戦によって日本と台湾は切り離されました。
日本には米軍が進駐し、台湾には支那蒋介石の国民党軍が占領軍として進駐してきました。

この国民党軍が台湾にはじめてやってきた日のことを、台湾出身の楊素秋(ようそしゅう)さんがその著書で述べています。
すこし引用してみます。

========
中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。
しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。

国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。
それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。

そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。

日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。
その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。

敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。

不安な気持ちで一杯でした。

そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。
恐ろしい光景に見えました。

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。
それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。

まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。
今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。

女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。

(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)
========

ところが、彼らの問題は、身なりだけではありませんでした。
それ以上に、彼らの腐敗の凄まじさに、台湾の人々は驚いたのです。

軍人や官僚による、強姦・強盗・殺人、しかも犯人がわかっていても、彼らは絶対に罰せられません。
凶悪犯で罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは禁じられました。
今の日本で在日半島人や大陸人が重大犯罪を犯しても報道は日本人名で行われるのと同じです。

公共の資材が国民党官僚によって接収・横領されました。
横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられました。
そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎました。
短期間のうちに失業も深刻化しました。
不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも高まっていったのです。

昭和22(1947)年2月27日、台北市の街頭に、ひとりの女性がいました。
闇タバコを販売していたのです。
戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしていました。
同じ時期の支那大陸では、国民党はそれらの自由販売を認めていました。
つまり、強制専売は、台湾の人々から少しでも財産を巻き上げようとするものであったわけです。

その女性は40歳で、2人の子がいました。
この女性を、国民党の官憲が捕まえました。
女性は土下座して許しを懇願しました。
けれど取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収しました。

同じ中国人というのに、なぜ台湾だけが専売なんだ?と、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていたところに、この殴打事件です。


続きを読む