ねず様のブログ・ねずさんのひとりごとより。
古事記の前段を、おもいきって要約すると、はじめに天の神様がおわし、イザナキ、イザナミの男女二神がお生まれになり、その二神から日本の国土と日本の神々が生まれ、その神々の直系の御子孫として神武天皇がお生まれになり、私たちの国を開かれた、となっています。
その古事記の物語のはじめの方に、アマテラスオオミカミと、スサノオのやりとりの場面があります。
スサノオは、はじめ海の神を任せられるのですが、母親が恋しいと泣いてばかりいて仕事をせず、ある日突然、黄泉の国に行きたいと思い立って仕事を放り出し、高天原におわす姉のアマテラスオオミカミ様のところに会いに出かけて行くのです。
そのときの様子は、のっしのっしと、まるで地震の大ナマズが暴れているような具合で、山や川が大荒れの嵐になり、国中が揺れ動きました。
その様子に驚いたアマテラスオオミカミは、てっきり弟のスサノオが攻めて来たと思い、髪を解いてみづらに束ね、左右のみづらにも鬘(かずら)にも、左右の手にも、それぞれ八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の五百箇の御統の珠(みすまるのたま)を巻きつけ、背には千本の矢の入った靫(ゆき)を背負い、脇腹には五百本の矢の入った靫を着け、また肘(ひじ)には勇ましい高鞆(たかとも)を取り着け、弓の腹を振り立てて、力強く大庭を踏み、淡雪のように土を蹴散らかして、勢い良く叫びの声をあげて待った、とあります。
「みずら」というのは、左右の髪を耳のところで輪にして巻いたヘアスタイルです。このヘアスタイルは、古代もののアニメやマンガ、あるいはイラストなどで目にされている方も多いかと思います。
「鬘(かずら)」は、「カツラ」のことで、なんらかのかぶり物、おそれくこれは戦闘用のカブトであったろうと思います。
そして頭にも、両手にも、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を付けられたとあります。
八尺というのは、約180cmです。
「瓊(にの)」は、赤い宝石を意味し、メノウです。
ですので、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)というのは、メノウでできた勾玉を180cm連ねたものを身に付けられた、というわけです。
そして「五百箇の御統の珠」とは、500の国々の魂をひとつの連珠に繋ぎ合わせたもので、これを体に巻き付けたとありますから、おそらくこの意味しているのは、数多くの国々から派遣された兵で護りを固められたということでしょう。
そして「脇腹には五百本の矢の入った靫(ゆき)を着け、また肘(ひじ)には勇ましい高鞆(たかとも)を取り着け」というのも、数えきれないくらいの量の矢を背負った勇ましい兵の姿のことでしょう。
さらに「弓の腹を振り立てて、力強く大庭を踏み、淡雪のように土を蹴散らかして、勢い良く叫びの声をあげて待った」とありますから、多くの弓矢で武装した兵たちが、まさにときの声をあげて戦闘モードでスサノオを待ちうけたという様子が、この記述からみてとれます。
このことは、実はとても大切なことを意味しています。
なぜなら、たとえそれが実の弟であったとしても、世を荒し、世に危害を及ぼしそうなものであれば、ちゃんと武装して待ち構えよ、ということを、このお話はわたしたちに教えてくれているからです。
アマテラスオオミカミ様にしても、縄文から古代にかけての日本人の気質にしても、またその後の日本の歴史においても、基本、平和を好み戦いを好みません。
けれどいざ危険が迫ったときにに際しては、アマテラス様さえも武装されたわけです。
ただし、アマテラス様は、武装したからといって、すぐにスサノオに攻撃を加えたわけではありません。
スサノオと話し合い、そこで行われたのが、誓約(うけい)です。
このことは、実に大切な教えであろうかと思います。
つまり、武装というのは、必ずしも敵を殺したり殲滅したりするためのものではなくて、国を護るために必要なものであるということ、そして、だからといってやみくもに戦いをするものではない、ということを、わたしたちに明確に教えてくださっているからです。
「武装がなければ人体に白血球がないのと同じで細菌の侵入にまかせるより仕方がない」というのは、宮崎の高千穂神社の宮司である後藤俊彦さんの言葉ですが、まさにその通りと思います。
多くの左翼系の方々が勘違いされていると思うことなのですが、国家には平時と非常時があります。
平時ならば、白血球は不要なものかもしれない。
けれど、有事に際しては、白血球がなければ、人体そのものが、多大な痛みとともに滅んでしまうからです。
平時というのは、通常の法が有効に機能しているときです。
法が有効に機能するから、平時であるともいえます。
有事というのは、法が機能し得ない事態が生じたときです。
国内法では、どうにもならない事態が有事です。
ですからたとえば、地震や大津波などは有事です。
戦争や侵略行為、領土を他国に占領されたりするのも有事です。
元寇は、まさに有事です。
竹島の侵略も有事です。
北方領土占領行為も有事です。
そして自国の法の及ばない他国によって、あらぬ像を建てられたり、ありもしない虐殺をしたなどといいがかりを付けられること、それも法が及ばない事態を有事というなら、まさに有事です。
平時に際して活躍するのは警察や消防です。
けれど、有事に際して活躍するのは、軍です。
なぜなら、地震や大津波に際して、警察や消防では対処しきれないからです。
平時の治安や防災を業務とする警察や消防には、有事に際しての装備も訓練もないからです。
同様に、他国侵逼や他国における誹謗中傷行為への対応も、国内法に基づいて活動する警察や消防では、対処しきれません。
これもまた、軍が出動すべき事態です。
昨今の日本において、自衛隊や軍は、もっぱら戦争をするための、まるで道具のように思っている人が多いですが、軍というのは、決してそのようなものばかりではありません。
あらゆる法によって対処しきれない問題、つまり有事において、もっとも頼りになるのが、実は、軍なのです。
日本は、アマテラス様の時代から、ずっと国軍を保有してきました。
と同時に、世界中のありとあらゆる国が、国王や大統領府を護るために、必ずといっていいほど、近衛隊のような王や大統領直結の警備兵をもっていたのに対し、わたしたちの国は、天皇をお護りするための天皇直轄兵兵というのは、明治にはいってからの国軍をのぞいては、歴史上、ごく短期間しか存在させなかった国でもあります。
それは、軍がなくても天皇をちゃんとお守りできるだけの体制と民度を、わたしたちの国が保持したからです。
明治にはいってからの国軍は、それだけ他国(欧米列強)の脅威が大きかったことへの応答です。
先日の予算委員会で、一部の野党が、九条厳守、国軍の否定論を主張していましたが、国民の命を守る意思のない国会議員は、それだけで、日本の国政を担う国会議員としての資格を欠きます。
なぜなら、日本の国会議員の最大の役割は、わたしたち国民の生命と財産の安全を守ることにあるからです。
日本はいま、支那、韓国、北朝鮮という現実の軍事的脅威にさらされています。
そして中共は露骨に軍事費を拡大して尖閣に迫り、また琉球列島を超えて太平洋側への進出を図っています。
もし中共が太平洋を軍事征圧圏にすれば、日本の独立はなくなります。
韓国は現実に竹島を軍事占領し、国際社会において日本を慰安婦問題で糾弾し、また日本海を東海に呼称をあらためるように国際社会にはたらきかけるなど、露骨な日本への挑戦を図って来ています。
また北朝鮮は、日本人を拉致し、そして日本の上空をめがけて公然とミサイルを発射しています。
これらはすべて、具体的な軍事的脅威であり、日本国民への脅威です。
軍事的脅威に対しては、軍事的応答を具体化しなければ、日本は飲み込まれます。
飲み込まれれば、日本は、支那人か朝鮮人によって「支配」されることになります。
そしてそのことは、チベットやウイグルや、朝鮮戦争の悲惨を例に持ち出すまでもなく、日本国民の生命財産を直接におびやかすものになります。
日本は、防衛省を国務省とし、自衛隊を国軍に、そして年間防衛予算は、最低でも、10兆円規模にする必要があると思います。
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