【賞賛される日本】
英国の圧政に苦しんでいた人々にとって日本軍は“解放者”
ZAKZAK 夕刊フジかつてマレーシア航空の機内誌『GOING PLACES』に、英文でこう記されていた。
《日本の英国に対する勝利は、長くヨーロッパの植民地であり続けたアジア人の意識の中にあったヨーロッパ列強諸国の無敵神話を、見事に粉砕したのである…》
日本の学校では教わらない“事実”を、他国の航空会社の機内誌で知るというのは、一体どういうことなのか。
1941年12月4日、山下奉文中将率いる日本陸軍部隊は、17隻の輸送船に分乗して海南島を出港した。目指すは英領マレー半島だった。
ABCD包囲網で、日本はあらゆる工業資源の輸入の道が断たれた。英国の要衝シンガポールを攻略し、その先の蘭印インドネシアの石油資源を確保することは、自存自衛には不可欠だった。
また、英領・香港とインドの中間に位置し、英国の東洋支配の中心だったシンガポールから英国を追い出すことは、アジア解放の第一歩となる。つまりマレー攻略戦は「日本の自存自衛」と「アジアの植民地解放」という大東亜戦争の目的そのものだった。当時、英国の圧制に苦しんでいたマレー人にも、英軍を駆逐する日本軍は“解放者”として映った。
山下将軍は、部隊の一部を英領マレーのコタバルに向かわせる一方、本隊を、タイ領のシンゴラとパタニに上陸させた。英領マレーの西海岸の要衝を攻めるには、タイ領から進撃するのが近道だったからである。
日本が英米両国に宣戦布告するや、日本とタイは平和進駐協定を締結し、日本軍は合法的にタイ領を通過した。2週間後には日泰攻守同盟(日本-タイ軍事同盟)が締結された。タイは日本の同盟国だったのだ。
かくしてマレー作戦は成功し、シンガポール攻略戦は日本軍の勝利に終わった。ただ、その後、圧倒的物量を誇る連合軍の前に日本軍は力及ばず、大東亜戦争は日本の敗北で幕を閉じた。
しかし、日本軍のマレー電撃戦やシンガポール攻略戦は結果として、英国によるアジア支配を終わらせ、マレーシア、ビルマ、インドをはじめ、アジア諸国の独立に貢献したのである。
後のタイ王国首相、ククリット・プラモード氏は、自らが主幹を務めた日刊紙『サイヤム・ラット』に戦後、次のように書き記している。
《日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない》(『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻)
プラモード氏がいう「この日」とは、41年12月8日-大東亜戦争開戦の日のことである。
アジアは中国・韓国だけではない!
アジアには親日国家マレーシア、そしてタイ王国がいる!
(軍事ジャーナリスト・井上和彦) =おわり