「永遠の0」94歳の語り部。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 



トラ・トラ・トラ 真珠湾攻撃、右目を失い生還した飛行士。
「英霊を大切にして欲しい」
現代版「永遠の0」94歳の語り部

産経ウェスト


真珠湾攻撃に参加した城武夫さん=大阪市港区


「恐らく帰れないだろうと、決死の覚悟だった」。70年あまり前の思いが、いまだ胸裏に深く刻み込まれている。第二次大戦で米ハワイの真珠湾攻撃に第1次攻撃隊として参加した元日本海軍飛行士、城(しろ)武夫さん(94)=高松市。飛行士として幾多の戦場を経験し、教官として終戦まで特攻隊員を見送った。今も思い出すのは、若くして戦死した仲間や教え子たちの姿。「後世まで英霊を大事にしてもらうきっかけになれば」と、語り部として講演活動も行っている。

散った仲間が脳裏に…「すまない。語り継いでから逝く」

 昨年12月、大阪市内で行われた講演会。約600人の聴衆を前に、城さんはしみじみと語り始めた。

 「あんなに美しい日の出は、見たことがなかった」

 昭和16(1941)年12月8日早朝。城さんは、空母「飛龍」から3人乗りの攻撃機で真珠湾に向けて飛び立った。機上で、明るくなり始めた東方の雲の上から朝日が差し込み、緊張が高まった。

 湾内にひしめく艦船に向け、低空飛行で攻撃を仕掛ける。激しく水柱が上がり、立ち上る煙が視界を遮る。1隻の戦艦に狙いを定めて魚雷を投下。機上から艦に向かうさまが見えた。「敵も攻撃してくる中で、とにかく必死だった」

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 15歳で海軍の航空隊予科練習部(予科練)に入隊。訓練を積み、日中戦争に従軍するなどして、15年に飛龍に配属された。

真珠湾攻撃の約3カ月前、地形が似ている鹿児島・錦江湾で低空から魚雷を落とす訓練を繰り返した。だがこのときは相手が米国だとは思っていなかった。

 16年11月下旬、択捉島に空母が集結。交渉が決裂した場合、米国が戦いの相手になると知らされた。開戦前夜、遺書をしたためた。

 真珠湾攻撃後の17年4月、インド洋の英海軍基地を攻撃中に敵の戦闘機の攻撃に遭った。機体が海上に不時着し、同郷の仲間と、自身の右目を失った。治療のため、飛龍を降りて海軍病院に入院した。

 その間、日本海軍の機動部隊はミッドウェー海戦で大敗。飛龍も沈没し、仲間の多くが戦死した。「入院していなかったら、自分もミッドウェーで戦死していただろう」

 その後、徳島航空隊で教官として学徒出陣で召集された飛行予備学生を指導する立場に。教え子には俳優の故・西村晃さんや茶道裏千家の千玄室さんもいた。教え子の多くは特攻隊員として出撃。身を切られるような思いで見送った。

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 終戦後、世の中の価値観は一変した。戦争の話をするのは避けてきたが、手を振りながら敵陣に突っ込んでいった仲間らの姿がいつも脳裏に浮かぶ。「すまん…」。心の中で、常に頭を下げ続けてきた。

一方で、当時を知る者として、確固たる思いがあった。「戦争を否定しても、家族や国のために戦死した人たちのことまで否定するのは間違っている」

 依頼を受け、何度か講演してきた。経験を語るのは自らのためではない。「亡き戦友たちの思いを伝えたい。そして英霊を後世大事にまつってもらいたい」。“94歳の語り部”としての使命をかみしめている。