【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(40)
領有から満州国の建設へ 「万斛の涙」を呑んで方針転換。
清朝最後の皇帝、溥儀の満州国執政就任式の後に行われた新国旗の掲揚式=昭和7年3月9日、新京(防衛研究所戦史研究センター所蔵、偕行社「満州事変写真集」から)
満州事変勃発から4日後の昭和6(1931)年9月22日、事変の「当事者」である関東軍は、三宅光治参謀長以下、板垣征四郎高級参謀、石原莞爾参謀らによる幕僚会議を開いた。
電光石火に主要都市を陥落させた満州(現中国東北部)での次の戦略が議題だった。この席で石原らが当初から計画していた「満州領有」を断念し、親日的な「独立政権」をつくることに方針転換した。「独立国家」とは言ってないが、含むところは「満州国」の建設だった。
事変勃発からわずか4日後に、関東軍が「後退」を余儀なくされた最大の理由は、日本政府の対応だった。
若槻礼次郎内閣は事変翌日の19日午前の閣議で、これまた電光石火に「不拡大」の方針を決めた。関東軍の「暴走」を阻止するため満州に派遣されていた陸軍参謀本部の建川美次作戦部長も「止め男」の役割は果たさなかったものの、領有には強く反対した。
政府を押し切れると踏んでいた石原らにとって計算外だった。満州全土の制圧は強行できても、これでは政府や軍中央から軍費、兵員、兵器の補充が不可能となり、予想される中国・張学良軍の反撃に耐えられない。
方針転換に、石原だけは不満だったという。石原にとって満州領有は日本の権益維持だけでなく、持論の「最終戦争」を戦うためにも必要だったからだ。
石原によれば、日露戦争から第一次大戦への流れでいずれ東の覇者・日本と西の覇者・米国とが最終的に戦うのは必至だ。日本が勝ち抜くには、将来性豊かな満州で力をため込まねばならない。「占有」でなければそれは不可能と考えたのだ。
だがその石原もこれを受け入れる。「万斛(ばんこく)の涙を呑(の)んで」と言ったという。中国人の統治能力に疑問を持ち、占有論を唱えていた石原が、その考えを変えたからだともされる。
満州国建国に踏み切った関東軍は漢・満・蒙・日・朝の「五族協和」や「王道楽土」といった理念で新国家をアピール、昭和恐慌の不況から抜け出せない日本の国民の「期待」を得ていく。
一方で11月には新国家の柱とすべく清朝の最後の皇帝、溥儀を幽閉先の天津から脱出させ、満州に迎え入れた。そして翌昭和7(1932)年3月1日、満州国の建国を宣言する。
首都は中心都市、奉天の北の長春に定め新京と改称、溥儀を執政(後に皇帝)とし、立法、行政、司法の機能を持つ近代国家の装いでスタートを切った。
だが当然のことながら、強引ともいえる建国に、中国をはじめ国際社会の反発は強かった。中国からの提訴を受けた国際連盟は、英国のビクター・リットン卿を委員長に仏、独、伊、米の代表からなる調査団を2月末から日本と満州などに派遣、満州事変と満州国について事情を調べた。
報告書は10月初め公表される。満州国については「現地民の自発的運動によって樹立されたものではない」と、日本側の主張を退けた。一方で「満州の自治」や「満州における日本の利益」を認めていた。「日本の利益」を守るための関東軍の存在も認めることになり、日本にとって必ずしも不利な報告書ではなかった。
だが、満州国の正当性は譲れないとする日本は、報告書が欧州からの目線だけで書かれているとして反発、報告書公表前の9月、斎藤実内閣の内田康哉外相が満州国承認を発表してしまった。
このため欧州各国などの反発は一段と強まる。翌昭和8(1933)年2月の国際連盟臨時総会では、満州国を不承認とするリットン報告書を42対1の圧倒的多数で可決した。日本の全権代表、松岡洋右は連盟脱退を宣言、会場を後にする。
脱退は松岡個人にとって本意ではなかったとされる。だが日本の世論は脱退を「快挙」とし、松岡を英雄とたたえる具合で、もはや後に引きようはなかった。(皿木喜久)
満州国の執政に担がれた溥儀。後に満州国皇帝に就く
◇
【用語解説】国際連盟
第一次大戦の惨禍を繰り返さないため1920年のベルサイユ条約発効とともに、設立された。当初は戦勝国など42カ国でスタート、日本は英、仏などとともに常任理事国として加わり、新渡戸稲造らが事務次長をつとめ積極的に貢献した。
だが主唱者だった米国が国内の孤立主義の台頭で不参加となるなど、初めから存立は危うかった。加えて1933年、日本、ドイツが脱退、さらにイタリアも1937年、エチオピア併合問題で脱退するなどで急速に形骸化した。第二次大戦後、新たな国際連合(国連)にその任務を譲り、消滅した。