【夫婦の日本史】
中臣鎌足(614~669年)と鏡姫王(?~683年)
「中大兄皇子と中臣鎌足」=小泉勝爾筆、神宮徴古館農業館蔵(近代出版社『名画にみる國史の歩み』から転載)
「天皇の妻」をもらった名参謀
《玉くしげ みもろの山の さな葛(かずら) さ寝ずは遂(つい)に ありかつましじ》
『万葉集』巻2に載るこの恋歌は「(三輪山のさね葛のように)あなたと寝ないでは生きていられない」という情熱的なものだが、作者があの中臣(藤原)鎌足だと聞けば、意外に思う人も少なくないだろう。
12歳年少の中大兄皇子(天智天皇)を助け、蘇我入鹿(いるか)を誅殺(ちゅうさつ)するクーデター(乙巳(いっし)の変)を実現させた鎌足。大化改新と呼ばれる国政改革を推進した名参謀で、その後の日本史を彩った藤原氏の祖でもある。
鎌足の家族では息子の不比等(ふひと)が有名だが、妻については不明な点が多い。先の恋歌を贈った相手が、正妻の鏡姫王(かがみのおおきみ)(万葉集の表記は鏡王女)とされ、他に采女(うねめ)の安見児(やすみこ)、車持君与志古娘(くるまもちのきみよしこのいらつめ)という女性も伝わる。
だが、そのだれも人となりは確かでない。鏡姫王は鏡王(かがみおう)という皇族の娘で、中大兄の妻の一人だったと考えられている。采女は地方豪族から召し出され、天皇に奉仕した女性である。
中大兄が自分と関係のあった女性を与えたことは、鎌足への深い気遣いをうかがわせる。自身も蘇我氏から疎まれ、抹殺されかねない立場だっただけに、鎌足の貢献の大きさを身にしみて感じていたのだ。
天智天皇の2(663)年、日本(倭国)の兵は百済救援のため海を渡り、白村江で新羅・唐連合軍に大敗してしまう。亡国の危機だった。天皇は都を大津に移し、防備を固める。
近江に移って2年後、鎌足は大けがを負った。狩猟に出て落馬したとも考えられている。危篤状態に陥ると、天智天皇は病床を見舞い、「何かしてほしいことはないか」と声をかけた。
「申し上げることはありません。ただ葬儀を簡略にしてください。軍国(軍事と国政)に貢献できなかった私には、葬儀や墓づくりで迷惑をかけるわけには参りません」
『藤氏家伝(とうしかでん)』の鎌足伝には、彼がこのように薄葬(はくそう)を遺言したと書かれている。それほど白村江の失敗を恥じていたのだ。
天智8(669)年10月16日、鎌足死去。鏡姫王は鎌足の念持仏を本尊に山階寺(やましなでら)を建て、これが現在の興福寺につながっているという。
2年後、天智天皇も崩御し、翌年、「壬申の乱」が起きて天武天皇が即位したことは知られる通りである。その天武帝も「鎌足が生きておれば、この苦労はしなくて済んだのに」(鎌足伝)ともらした。鎌足は彼にとっても、必要な補佐役になる人物だったのだろう。
鏡姫王は天武天皇の12(683)年7月5日に亡くなった。天皇はその前日、姫王を自宅に見舞ったと、『日本書紀』には記されている。
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◎もっと知りたい 『藤氏家伝』は鎌足と長男の貞慧(じょうえ)(定恵)らの伝記で、鎌足の曽孫・藤原仲麻呂が執筆した。詳細な注釈書(沖森卓也ら著)が吉川弘文館から出ている。鎌足の墓は、大阪府高槻市にある阿武山(あぶやま)古墳とされ昭和9年、偶然に埋葬主体が発見された。漆塗りの棺の中には、60歳前後の男性の人骨と、天智天皇から贈られた大織冠(たいしょくかん)に織り込まれたとみられる金糸などが残っていた。