【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】
危機意識が招く満州事変
爆破事件が起きた直後の柳条湖の現場。左側が満鉄線=昭和6年(防衛研究所戦史研究センター所蔵、偕行社「満州事変写真集」から)
■「あたかも噴火山上に放置されていた」
昭和6(1931)年9月19日午前6時半、放送を始めて数年しかたっていないラジオが、ラジオ体操の番組を中断して「臨時ニュース」を伝えた。
満州(中国東北部)の奉天(瀋陽)郊外で、日本と支那(中国)の軍隊が衝突したという「満州事変」の一報だった。
事件が起きたのは前日9月18日の午後10時20分である。奉天駅から東北に8キロほど離れた柳条湖という場所で、南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破されたのだ。
被害は小さかったが、この付近で満鉄の警備に当たっていた日本の関東軍独立守備隊は張学良率いる東北辺防軍(東北軍)の仕業だとして、東北軍が駐屯する近くの北大営を攻撃、占拠した。
「衝突」の事実は直ちに、旅順にあった関東軍の司令部に打電された。本庄繁軍司令官は、深夜にもかかわらず参謀ら幹部に非常呼集をかける。まだ詳しい状況もわからないうえ、東京の政府や陸軍中央の意向も伝わってこない。どう動くか、迷いを見せる本庄に対し、作戦主任参謀の石原莞爾中佐は「もはや一刻の猶予もない」と大規模攻撃を進言した。
本庄は「よろしい。本職の責任においてやろう」と決断した。石原が戦後、東京裁判の酒田法廷での証言で明らかにしたことだ。
石原の生涯を描いた福田和也氏の『地ひらく』によれば、石原は本庄の許可を得た後、メモひとつ見ず、電報や電話で満鉄沿線の各連隊や独立守備隊を次々に出動させていく。19日昼ごろには奉天を制圧、同日中には沿線の主要都市をほとんど占領してしまった。
当時の関東軍は約1万4千人だった。これに対する張学良軍は19万といわれた。「事件」が起きたとき張は11万あまりを率いて北平(北京)におり不在だった。とはいえ「天才」といわれた石原らしい水際だった指揮だった。
あまりの手際のよさに柳条湖での爆破も関東軍によるもので、事変は全て石原らの「謀略」だったとする見方が定着してきた。
石原やその盟友の高級参謀、板垣征四郎大佐らが事前に、満州を制圧するための作戦を綿密に練っていたことは事実だ。だが満鉄線爆破については「謀略」説を疑う声も根強い。
張作霖爆殺事件でも関東軍犯行説をほぼ否定した近代史家、加藤康男氏は月刊誌『WiLL』1月号での討議で、東京裁判でも関東軍による爆破を裏付ける証言がなされていないなどの事実を挙げ、強い疑問を投げかけている。
一方、当時の若槻礼次郎民政党内閣は事件後、19日朝開いた臨時閣議で、国際協調路線の幣原喜重郎外相が関東軍による「謀略」を示唆、不拡大方針を決める。だが関東軍の石原や板垣らは「ここで足を止めれば日本が国際的非難を浴びるだけだ」と突っぱねる。
さらに林銑十郎司令官の朝鮮軍も政府の方針を無視して国境を越え援軍にかけつける。こうして満州全域の支配に成功した。このため「関東軍」は、上の命令に従わず「暴走」することの代名詞になった。だが「暴走」の背景には緊迫した満州の状況があった。
日本政府や関東軍としては、満州を事実上支配していた軍閥の張作霖やその長男、張学良を手なずけることで、満鉄を中心とする日本の権益を守る方針だった。
だが張作霖の死後、張学良が蒋介石の国民政府の傘下に入ると、張学良軍や満州の中国人による反日・排日姿勢が強まり、日本人の安全は脅かされる。日本が抗議した事案だけで3千件を超した。
石原は戦後、東京裁判での証言で、それは「一触即発あたかも噴火山上にあるままに放置されていた」と述べている。さらに「単なる外交交渉による日本権益の保持は期しがたかった」としたうえで、こうも指摘した。
「日本が満州より全面撤退したなら、単に権益を失うばかりでなく、ソ連が満州に進出し、日本全体がその国防を全うし得ず…」
とても「謀略」や「暴走」では片付けられない危機感が渦巻いていたのである。(皿木喜久)
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【用語解説】関東軍
日露戦争後、中国・遼東半島の租借(そしゃく)権を得た日本はこの地を関東州として、関東都督(ととく)府を置いた。その陸軍部が関東州や経営権を得た南満州鉄道とその付属地の警備に当たったが、大正8年独立して関東軍となった。当初は内地から交代で派遣される1個師団や満州独立守備隊などからなった。
司令部ははじめ旅順にあったが、満州事変勃発とともに長春(新京)に移る。昭和7年の満州国建国後は司令官が駐満特命全権大使を兼任、満州国に絶大な影響力を持った。戦力は徐々に拡充されたが、第二次大戦末期のソ連軍の満州侵入で一気に瓦解(がかい)した。