【ベテラン記者のデイリーコラム・江戸っ子記者のなにわ放浪記】
「軍都・大阪」の歴史 乱は西から…。
地政学的、なにわの安全保障考
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131226/wlf13122616300026-n1.htm大阪城天守閣そばに残る陸軍第4師団司令部庁舎
天下の台所といわれ商都としてのイメージが強い大阪。しかし、先の大戦前までは名実ともに軍都でもあった。陸軍第4師団司令部庁舎、砲兵工廠(こうしょう)など、その史跡をたどっていくと、安全保障や防衛を考えるうえで、歴史的資産があふれる街であることが浮かび上がってくる。
陸軍第4師団…戦後も大阪市警視庁、府警に
大阪城天守閣そばに残る第4師団司令部庁舎正面の塔。菊の紋章が外された
大阪城内に陸軍の西日本最大拠点となる大阪鎮台が明治4年にでき、明治21(1888)年には第4師団となる。
第4師団司令部庁舎は現在も大阪城天守閣の前に地下1階・地上3階の建物として残る。この秋、特別に公開された際に内部を見学する機会を得た。2階にあった天皇の御座所には、その後に大阪市立博物館として使われた時代の展示物だった「タイムカプセル」の一部がまだ残っていた。
外観は中世のヨーロッパの古城をイメージに建てられ、ロンバルジアバンドという連続した半円形の装飾があちこちに見られる。
正面の塔には焦げ茶の古びた壁面に、うすく丸い形の痕跡があるが、戦前は菊のご紋が輝いていたのを戦後に取り外したためだ。
この司令部庁舎は、昭和初期の大阪城天守閣再興のために、旧財閥の寄付や大阪市民の浄財として集まった150万円の資金のうち、80万円が庁舎建設費として使われた。
なぜ、庁舎建設費に充当されたのか。それまで、第四師団司令部があったために、大阪城内に市民は原則入れなかった。昭和天皇即位記念として始まった天守閣再興の際に、場内を公園として開放しようとの機運が高まった。
しかし、城内には司令部がある。そこで、司令部の新築建設費を集まった資金から拠出し、その代わりという意味合いから、公園として開放された。
庁舎は戦後、米軍に接収され、その後は、大阪市警視庁、大阪府警本部として使用された。昭和35(1960)年から平成13(2001)年までは、大阪市立博物館だった。
第4師団司令部庁舎内部の階段
東洋一の兵器工場
東洋一の偉容を誇った砲兵工廠跡の石碑=大阪城公園内
現在、大阪城北側からJR京橋駅の間に「大阪ビジネスパーク」がある。超高層のオフィスビルが立ち並ぶ広大なエリアだ。
ここに、陸軍砲兵工廠があった。当時、35万6500坪の敷地に、弾丸、小銃、大砲、戦車などあらゆる陸軍兵器を造っていた。そこで稼働する人々は、終戦時に約7万人いたとされる。この砲兵工廠を中心に大阪の製造業は拡大していった。しかし、米軍による空襲で壊滅し、廃虚になった。ここでくず鉄を盗む集団「アパッチ」を描いた『日本三文オペラ』は開高健氏の傑作としてあまりに有名だ。
大村益二郎
東京の靖国神社に銅像があり、長編歴史小説「花神」で生涯を描かれた大村益次郎。明治維新に日本の近代軍の創設を主導した。
大村は軍の中核都市を江戸から首都となった東京ではなく、大阪に据えようと企図し「大阪開兵」を主唱していた。
明治新政府の太政官制で軍務を統括した兵部省大輔となった大村はなぜ、軍の要を大阪にしようとしたのか。江戸幕府を倒し新政府がスタートを切ったものの、各地には新政府に対する反抗勢力がまだまだ多かった。特に、西日本にはそうした勢力が根強く、事実その後、西南戦争、佐賀の乱、萩の乱などはいずれも西日本で起きている。
大村も「今後注意すべきは西である」との発言を残しているいることからも分かり、地政学的な考慮があった。
また、大阪は当時、海運などで物資の流通の中心地であり、経済活動も盛んだったため、軍の兵站(へいたん)確保にも格好な都市であった。
大村は「大阪開兵」のため、5つの着想を持ち、それらは、大村が明治2年に京都で不平士族によって襲われ、大阪の病床で死去した後、結実していった。まず、兵部省の基礎を大阪に設けようとした。さらには、その後、東洋一の兵器工場である砲兵工廠の前身となる造兵廠の建設。後の陸軍士官学校につながっていく兵学寮の創設、将兵の訓練地となった。
また、近代戦の多数の負傷将兵のために陸軍病院を建設。多数の戦死者の埋葬、慰霊のためには、陸軍墓地の造設となった。
陸軍墓地
大阪市天王寺区に陸軍墓地は残る。最古で最大の陸軍墓地である。
明治初期の戦死者は、遺体引き取りまで2日以上経過する場合、遺体の損傷などを考慮して陸軍墓地に
埋葬された。当初の墓地の面積は、28040平方メートルあった。陸軍創設期の病死した兵士から、明治10年の西南戦争、日清、日露、先の大戦の戦死将兵らが埋葬され、墓碑総数は5299基以上。戦死者が急増した日露戦争以降は合葬墓や納骨堂が建立されている。
清国やドイツの捕虜となった兵士らの墓もある。碑銘には「俘虜」の文字があったが、ドイツ兵の墓石からは削られている。昭和6年に第四師団長が参拝中に、墓参に来たドイツ領事と会い、「俘虜」の碑銘が削られたという。
米軍捕虜銃殺も
墓地入り口脇の小さな空き地は、昭和20年8月15日の終戦の日に、大阪に留置されていた米軍捕虜5人が斬首、銃殺された埋められた場所だ。戦後、米軍が掘り返し、米国に遺骨を戻した。その時の様子を記録した写真は、米公文書館に保存されている。
近藤豊和 |
東京生まれ、東京育ち。東京五輪開催年の1964年生まれ。大阪本社赴任は初めて。社会部で警視庁や東京地検特捜部などを担当した後に、米国留学を契機に国際ニュース畑にも。ワシントン特派員時代は国防総省、FBI、CIAなどを取材。(株)産経デジタルの立ち上げに参画し、編成本部長などを歴任。3年間のデジタルの世界で“金儲け”も学ぶ。紙の世界に戻り、社会部長、編集長などを一応務めあげ、産経新聞発祥の地である“なにわ”に赴任。編集局局次長兼論説委員とともに、「5代目大阪特派員」も襲名した。ラグビー観戦が好きで、体型もプロップ、フッカータイプ。ゴルフは下手だけど好き。「大河ドラマ」少年で日本史、特に中世、近世、幕末あたりに関心大。カバーエリアは、大阪を中心に関西、西日本すべてということになっている。 |