【再び、拉致を追う 第10部 明日への提言(下)】
北朝鮮による韓国・延坪島砲撃から間もない平成22年12月10日、菅直人首相(当時)は拉致被害者家族との懇親会で、朝鮮半島有事への備えをこう語った。
「万一のとき拉致被害者を(北朝鮮から)いかに救出できるか、準備を考えておかなければならない」
さらに菅氏は翌11日には、記者団に「拉致被害者はもちろん、韓国にいる一般邦人を自衛隊機で救出するルールができていない。これから韓国との間で相談を始めたい」と、自衛隊法改正にも踏み込んだ。
ところが菅内閣はその後、この問題で何も具体的に動こうとはしなかった。
それどころか、拉致被害者「救う会」副会長の島田洋一福井県立大教授は、複数の政府関係者からこんな実態を聞く。米国や韓国との調整も必要となることから、「どう進めましょうか」と指示を求めた事務方に対し、菅氏はこう言い放ったのだという。
「本気で自衛隊を韓国に送るなんてことを、俺が考えるはずないだろう」
単なるリップサービスかでまかせだった、ということになる。国家の最大の使命である国民の生命・財産・自由の保護を軽視し、必要な法整備や取り組みを怠ってきた戦後日本社会のひずみは、拉致被害者やその家族を翻弄してきた。
14年9月の小泉純一郎首相(当時)との初会談で金正日総書記(同)が拉致の事実を認めるまで、拉致問題はないがしろにされがちだった。
◆日朝正常化の「障害」
「たった10人のことで日朝正常化が止まっていいのか。拉致にこだわり、国交正常化がうまくいかないのは国益に反する」
外務省の槙田邦彦香港総領事(同)が11年12月の自民党の部会でこう発言したのは、このころの永田町・霞が関の空気を反映している。実はこの言葉自体、「河野洋平外相が日ごろから話していることを代弁したにすぎなかった」(現在の外務省高官)という。
メディアをみても、朝日新聞は同年8月31日付の社説で「日朝の国交正常化交渉には、日本人拉致疑惑をはじめ、障害がいくつもある」と記し、拉致問題を邪魔もの扱いしている。
初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏は「北朝鮮へのコメ支援に反対する拉致被害者家族らが自民党本部へ行ったら、党幹部が警察署に『建造物侵入だ。追い出してくれ』と要請してきた」と振り返る。
こうした傾向は小泉氏の初訪朝まで続いた。安倍晋三首相はかつて産経新聞のインタビューに、その直前の首相官邸の雰囲気をこう証言している。
「政府の中の何人かの主要な高官が、『大義は日朝国交正常化であり、拉致問題はその障害にしかすぎない』と言っていた」
本来、拉致被害者の奪還に全力を注ぐべき政府の認識はこの程度だったのだ。国家主権の侵害であり、重大な人権問題でもある拉致問題を、日本がこれほど軽んじていた事実は重い。
そして現在、あからさまに拉致問題を軽んじるような意見はほとんど見なくなったが、われわれ国民は拉致被害者を取り戻すために何をしてきただろうか。
◆救出できぬ自衛隊
「拉致に再び大きな関心を持ち、すべての国民が怒りをぶつけてもらいたい」
古屋圭司拉致問題担当相は14日の政府主催シンポジウムでこうあいさつした。問題解決には、強い世論の後押しが必要だからだ。
また、拉致被害者の有本恵子さんの父で、「家族会」副代表の明弘さんはこう切々と訴えた。
「憲法改正が対北朝鮮外交のスタートになる。そのことを知っていてほしい」
憲法を改正して独立国家として種々の法制を整えることで、拉致問題でも初めて北朝鮮と正面から対決できるというのが有本氏の持論だ。現在の政府見解では「他国の領域内の日本人を武力行使などの手段で保護を図ることは憲法上、許されない」とされており、自衛隊は拉致被害者を「救出」できない。
会場からも次のような意見が表明されていた。
「自衛隊には特殊作戦群があり、日夜訓練を重ねていて士気も高い。しかし、残念ながら(被害者救出は)わが国はできない。憲法問題ということもある」(ジャーナリストの恵谷治氏)
「実力、つまり自衛隊による救出準備に官民挙げて取り組むべきだ」(潮匡人・拓大客員教授)
安倍首相は月刊誌「文芸春秋」の今年1月号で、憲法前文について「平和を愛する諸国民が日本人に危害を加えることは最初から想定されていない」と指摘し、横田めぐみさんの拉致事件をこう総括している。
「結局、日本国憲法に象徴される、日本の戦後体制は13歳の少女の人生を守ることができなかった。そして、今もその課題は私たちに残されている」
拉致問題解決のためには、憲法改正も含む法整備など課題を一つ一つ乗り越えていくしかない。
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第10部は、久保田るり子、阿比留瑠比、ソウル・加藤達也、森本昌彦が担当しました。「再び、拉致を追う」は今回で終了しますが、産経新聞はこの問題の解決に向け、今後も真相を追い続けます。