織田・豊臣系と徳川系を融合させた傑作。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131215/dms1312150730003-n1.htm姫路城(別名・白鷺城)は平成5(1993)年、日本を代表する最も完成度の高い城郭建築として、わが国で初めて、奈良県の法隆寺とともにユネスコの世界遺産に登録された。
明治維新時に存在した城郭の中で唯一、城郭としての景観が廃城前の姿で観賞できる遺構。天守だけでなく、主要な櫓や門などの建物の大半が、江戸時代そのままに残っている。
しかし、天守群など建物が現存しているのは、旧城郭全体の3分の1弱にすぎない。廃城前の姫路城は、現在の姫路市街地中心部がすっぽり入る広さであった。
姫路城の歴史は、播磨(はりま)守護職、赤松則村(のりむら)が、元弘3(1333)年に砦を築いたことに始まる。戦国時代になると、羽柴(後の豊臣)秀吉の参謀となった黒田官兵衛(後の黒田如水=じょすい)がここを本拠とした。
天正8(1580)年、秀吉による播磨国(兵庫県南西部)攻めが始まると、官兵衛は秀吉に姫路城を提供。秀吉が入城すると、石垣を張り巡らせた三層天守を築き、西国攻略の拠点となる。
現在の乾(いぬい)小天守は秀吉時代の天守であるといわれている。姫路城と呼ばれるようになったのは秀吉時代からで、それ以前は「姫山城」と呼ばれていた。
姫路城が本格的な近世城郭として整備されたのは、徳川家康の娘婿、池田輝政(てるまさ)の時代だ。慶長6(1601)年から9年の歳月をかけて、5層7階(内部は地上6階、地下1階。地上からの高さは31・5メートル、現存する12の天守の中で最も高層)の大天守と、3基の小天守(西・乾・東)を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築きあげる。
輝政が完成させた姫路城は、徳川系城郭の最大の特徴である純白(白漆喰)の城であると同時に、建物の構造は古風な安土桃山城郭であり、織田豊臣系城郭と徳川系城郭を融合させた最高傑作であった。
【所在地】兵庫県姫路市本町68
【城地の種類】平山城
【交通アクセス】JR山陽本線・山陽新幹線「姫路駅」から徒歩約15分
■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。