【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(37)
「張作霖爆殺」浮かぶ異論。
爆破され大破した京奉線の列車。乗っていた張作霖が死亡した。上方、人が立っているのが満鉄線=昭和3年6月4日、旧奉天
満州(中国東北部)の中心都市のひとつ、奉天(現瀋陽)には、戦前から何本かの鉄道が通っていた。中でも幹線と言えば日本が経営する南満州鉄道(満鉄)線と、北京・奉天を結ぶ中国側経営の京奉線だった。その両線がクロスしている地点が市内にあり、上を南北に満鉄線、下を東西に京奉線が走っていた。
昭和3(1928)年6月4日午前5時23分、この交差地点で大爆発が起き、差しかかった京奉線の18両編成の列車のうち数両が大破した。最も破損の激しかった展望車には、中国北京政府の陸海軍大元帥を名乗る張作霖(ちょうさくりん)が乗っていた。張は重傷を負い、第5夫人宅に運び込まれたが、2時間後に絶命する。
馬賊出身の張作霖は満蒙(満州と内モンゴル)を支配下に治めたあと、山海関を越えて華北へ進出する。中華民国最大の実力者、袁世凱亡き後、軍閥同士の争いに勝ち、北京政府のトップに立つ。日本の関東軍も、満州での利権を守るため後ろ盾となっていた。
だが昭和2(1927)年に始まった国民政府の蒋介石による3回目の北伐で地位を脅かされる。昭和3年5月、北京陥落は確実な情勢となり、張作霖は日本の勧告を受け6月3日未明、北京をたち、28時間後に爆殺された。
満州の将来を揺さぶる大事件だった。だが一体誰が何のために爆破したのか分からない。日本では当時関東軍の高級参謀だった河本大作大佐が疑われたが、本人は否定、あいまいなまま「満州某重大事件」として処理された。
河本による犯行とされたのは戦後である。中国で中国共産党に逮捕された河本が「自白」したのをはじめ、さまざまな「証言」が出てきたからだ。
張作霖が満州に帰ることで関東軍との対立を恐れた河本が部下に命じクロス地点の線路脇に爆薬を仕掛け、張作霖の列車が通りかかった時間に爆破させたというのである。それが「歴史的事実」として定着してきた。
ところが最近になってこれを真っ向否定する説が登場している。きっかけは中国人のユン・チアン氏と英国人、ジョン・ハリデイ氏の『マオ 誰も知らなかった毛沢東』に、爆殺は関東軍の仕業に見せたソ連によるものだとサラリと書かれていたことだ。
一昨年刊行された加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』は『マオ…』の典拠で、ロシアの歴史家、プロホロフ氏らが旧ソ連の諜報機関について書いた『GRU帝国』に当たる。さらに、英国公文書館に残されている当時の駐北京英国公使から外相に宛てた公電を分析、ソ連諜報機関による犯行説を肯定的にみる。
とりわけ英国の公電は、満州に野望を抱くソ連が、邪魔になる張作霖を除いた可能性を強く示唆しているという。
加藤氏によれば、残された現場写真を見ると大爆発にもかかわらず線路脇に穴が開いていない。走る18両編成の列車のうち、張の乗った車両を的確に爆破するのは不可能に近い。だから列車を大破したのは線路脇の爆薬ではなく、列車の天井に仕掛けられた爆弾だったとほぼ断定した。
さらに張作霖の長男、張学良が1年前には蒋介石の国民党に入党しており、共産党とも接近していたと指摘、張学良がソ連側とも内通し、父の爆殺に関与していたことまで示唆している。
また河本はソ連などのトラップ(わな)にかかり偽装爆発の役を担わされたとする。そうだとすれば、河本としても威信にかけ、自らやったと認めざるを得なかったのだろうとみる。
むろん決定的証拠はまだない。だが東洋史の宮脇淳子氏は『真実の満洲史』の中で、張作霖の死により日本人は全然得をしていないことを強調、「中国人と日本人を喧嘩(けんか)させることばかり考えていた」ソ連が「ぜったい怪しい」と書いている。
いずれにせよその後、父に代わり満州の軍を握った張学良は、国民政府への傾斜と日本からの離反を強めていく。(皿木喜久)
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張学良の易幟(えきし)
張学良は父の死を受けて昭和3(1928)年7月、奉天で自ら東三省保安総司令に就任し、いわゆる奉天派軍閥を握ることに成功する。
それから半年近い12月29日朝、奉天城内外に国民党政府の青天白日満地紅旗を掲げ、それまでの五色旗を降ろさせる。有名な張学良による易幟(旗幟を変えること)で、蒋介石の国民政府軍の軍門に下ったことを裏付けた。実際張学良は10月段階で国民政府の委員に任じられていた。
なお加藤康男氏によれば国民政府の旗に加え、多くの赤旗も交じっていたといい、コミンテルンの濃い影をうかがわせている。
爆殺された張作霖大元帥